学习日语入门须知

来源:互联网 发布:数据员招聘 编辑:程序博客网 时间:2024/04/29 18:01
 日语和世界上的任何一个语种一样只是人类交流的工具,不能想当然把它与其它语种作比较,语言的民族性、地域性及约定俗成性决定了语言本省的特点和表达习惯,其本质上没有差异,不存在那一种语言难、那一种语言简单的问题。只要你:   
  ① 反反复复地读:是听说写译的基础,要相信重复就是力量,反复才能练就真功夫。  
  ② 认定一本教材:进行反复的训练,教材虽然有优劣之分,但是对于初学者来说,不必为选择教材劳精费神,中国出书毕竟不是太随便的事儿,况且日语研究在中国还不深入,但凡出书者都有一定的功夫,要放心大胆地坚持长期只读一本书,反对激进冒进和见异思迁的做法。   
  ③ 选准一位入门的好老师:“师者,传道授业解惑也”,选择适合自己的老师,坚持一段时间,往往可以帮你“养成一种好习惯、得到一种好惯性、悟出一种好方法。   
  ④ 适当的讲究学习的方法:方法就像支点,有了它可以成全你去撬动地球,但是,我提醒同学们不但要记着而且要永远记着“它只是一个条件,永远不能替代另一个条件——杠杆”。    
  ⑤ 大胆读、大胆说、大胆写:学外语不容易,谁都曾经出问题,关键要不怕丢面子,其实也没有人取消你,理解你是初学的。   
  ⑥ 多动脑筋思考增加对语言的悟性与敏感:日语是一门科学学科,尤其自身的有规律的系统的特点,只要你处处留心多动脑筋一定可以找到一些诀窍。   
  ⑦ 滴水穿石的毅力:学习日语就要象小鸡叼米,一粒一粒地吃,需要耐心不能焦急。  
  ⑧最忌吹毛求疵:学习日语的首要目的是交流传达给对方信息,其基本功能是工具。妇孺皆知,既然是工具就不但不会有十全十美的,而且有缺点才是正常的,就好比日本的丰田车,性能再好也有缺陷。我本人的中国普通话说的就不好但是丝毫没有影响交流。

容易出错的日语表现一

間違いやすい日本語の類似表現
「~だろう」と「~のだろう」 「ば」と「たら」と「なら」 「~にとって」と「~に対して」 「ために」と「ように」 「ても」と「のに」 「ている」と「てある」 「ようだ」と「らしい」
「~だろう」と「~のだろう」  「自分が行けと言われたら、どうするだろう」の「自分」は話し手を指すのに対し、「だろう」の前に「の」を入れて「自分が行けと言われたら、どうするのだろう」とすると、今度は「自分」が話し手以外の人を指すように感じられます。そんな「だろう」と「のだろう」の違いについて考えてみましょう。  まず、a「あの人は泣いているだろう」とb「あの人は泣いているのだろう」を比べると、aは「あの人」がその場に存在せず、話し手が想像して述べていますが、bは「あの人」がその場にいて、話し手がそれを見て推測していると解釈できます。「だろう」が想像に基づく推量、「のだろう」が実態に基づく推量を表している、と言えそうです。  「の」が入らないのはどんな時か考えてみると、典型的なのは、「頼めばやってくれるだろう」「あれだけ勉強したら合格するだろう」「もし女なら俳優になっただろう」のように、予想や仮想を表すときです。ある条件を立て頭の中だけで推測するようなとき、「だろう」の前に「の」は入りません。一方、「きっと財布をなくしたのだろう」「安いからこんなに人が集まるのだろう」「どうして泣いているのだろう」のように、目の前の現実がどうであるかを推測するときには「の」が入ります。実態に即した推量の場合です。  考えてみると、「の」は「イノシシが通るのを見た」「鈴虫が鳴くのが聞こえる」のように目や耳で感知した現実を表すのによく使われます。「のだろう」の「の」もそれと同じと考えれば分かりやすいでしょう。  また、「こんな服、誰が買うのだろう」と言えば、実態についての疑問、「の」を取り「こんな服、誰が買うだろう」と言えば、想像上の疑問ですが、想像上の疑問がさらに進むと、誰も買わないという反語の意味にもなるので、その点注意が必要です。  「だろう」と「のだろう」の違いは、「かもしれない」と「のかもしれない」の違いの説明にも適用できます。「あの人は知っているかもしれない」は頭の中だけでの推測なのに対し、「あの人は知っているのかもしれない」は現実の様子についての推測と言えます。  「の」一つで大いに違います。「の」は強調です、といった説明で済ませることは避けたいものです。

容易出错的日语表现二
ば」と「たら」と「なら」 「北海道に行けばスキーができる」「北海道に行ったらスキーができる」「北海道に行くならスキーができる」のように、条件を表すとき「ば」「たら」「なら」などの表現が用いられます。それぞれの特徴を考えてみましょう。  まず、「ば」は「話せば分かる」「四月になれば花が咲く」のように、ある条件のもとでどうなるか、仮定や想定による結果を導き出すために使われるのが一般的です。  一方、「たら」は仮定や想定だけでなく、広く「あることが実現したとき」という意味を表します。「許可が下りれば行く」と「許可が下りたら行く」は仮定として使う場合は違いを感じませんが、仮定ではなく許可が下りることがはっきりしていて「許可が下りたそのとき」と言いたい場合には、「下りたら」を使うことが多いのではないでしょうか。また、「きのうスーパーに行ったら先生に会った」は過去に実際に起こったこと、「あしたスーパーに行ったら卵を買ってきて」は未来に起こることですが、いずれも「たら」は「~したそのとき」というほどの意味で使われています。したがって、「たら」を用いれば、文末に命令・依頼・勧誘・意志など、どんな表現でもかなり自由に持ってくることができます。「売り切れちゃったら、ごめんなさい」という宝くじの宣伝文句はそのよい例です。  最後に「なら」の特徴は、前に動詞のル形を付け「行くなら」のようにして、動作が実現する前を想定することができることです。「北海道に行くなら厚い手袋を用意しよう」は行く前のこと。「行けば」や「行ったら」が行った後のことを想定するのに比べ対照的です。尚、「行ったなら」のように「なら」の前に動詞のタ形を置くと、行った後のことを表しますが、この表現は「行ったら」と意味がそれほど変わらず、使う場面も限られているので、初級の段階では導入しないほうが無難です。また、名詞を直接前に付けて「海外旅行なら中国です」のように、相手や自分が話題にしようとする主題を表すときに「なら」を使うというのは知っておきたいことです。  「ば」と「たら」は置き換えて言える場合が多く、地方によって使い方にかたよりも見られる(関西では「たら」を使うことが多い)ので、あまり細かな違いに惑わされることなく、基本をおさえて教えたいものです。

容易出错的日语表现三
「~にとって」と「~に対して」 「欧米人に対して漢字は難しい」「子供に対して友達と遊ぶことは大切だ」のように、「~にとって」と言うべきところで「~に対して」と言ってしまうくせが、外国人によく見受けられます。  どちらも使えるようにみえる場合でも、両者の機能は、はっきり違っています。例えば、a「選手にとって厳しい監督」と、b「選手に対して厳しい監督」とを比べてみると、aは「厳しい」が選手側の受ける感覚であるのに対し、bは「厳しい」が監督側の性質を表しているように思えます。また、a「子供にとって有害な図書」とb「子供に対して有害な図書」とを比べると、表している内容は同じでも、aは子供が害を受ける図書、bは子供に害を与える図書、と言っている印象を受けます。そのような違いは、どこから生まれてくるのでしょう。   「XにとってY」と言うとき、Xは、Yのように感じる主体です。したがって、「学生にとって嬉しい」「日本にとって重大問題だ」のように、Xには、感情や利害関係をもちうる、人・国・団体などに関係する名詞が入ります。また、Yには、状態を表す述語が入ります。   一方、「Xに対してY」と言うとき、Xは、Yという動作や意識などが向かう対象です。「学生に対して優しい」「日本に対して抗議する」のほか「市の建物に対して卵を投げる」「応援に対して感謝する」など、Xには人・国・団体ばかりでなく、物や事柄などを表す名詞が来ます。また、Yには、状態を表す述語、動作を表す述語の双方が入ります。  教室での練習の際、「XにとってY」については「XがYのように感じる」という意味関係が理解できるような例文を多く出すと分かりやすいでしょう。Yに入る述語は先に挙げた例のほか、「分かる」「さみしい」「重要だ」「有利だ」「恩人だ」など。また、「Xに対してY」については「Xに向かってYのようにする」という意味関係が分かる例文を出します。Yに入るのは、先の例のほか「答える」「手を振る」「冷たい」「満足だ」などなど。  両者は、中国語で言い表すときにはどちらも「対」という同じ語を使うため混同しやすい、といったことも頭に入れておく必要があるでしょう。

容易出错的日语表现四
「ために」と「ように」 「早く着くために特急に乗った」は言えるのに、「早く着くために速達で出した」はおかしく、「早く着くように速達で出した」と言わなければなりません。目的の意味を表すとき、いつでもタメニが使えるわけではないようです。「早く治るために休んだ」「うまく踊れるために練習する」などもちょっと変です。これらの文ではタメニの代わりにヨウニを使えば問題ないのですが、さて、タメニとヨウニはどう違うのでしょう。 まず、タメニが使えるのは、しよう(しまい)と思ってできる動作のときです。「お湯を沸かすためにヤカンに水を入れた」「車を止めるために左に寄せた」などでは(結果はさておき)「沸かそう」「止めよう」と思って動作をしています。否定の場合も「迷惑をかけないために黙っている」は「迷惑をかけまい」という意志をもった行動と言えます。逆に、他人の動作や自然界の結果などは、自分の意志で左右するのが難しいので、タメニを使うことができません。「彼女が立派な職人になるために指導する」「早く雪が融けるために土をまく」が少しおかしいのはこのためです。 一方、ヨウニは、しようという意志と関係なく、ある結果や状態になることを目指すとき使います。「充分間に合うように六時に出た」「寝やすいように枕をかえた」など。また、可能も状態の一種と考えられますから、「旅行できるように貯金する」など可能表現にはヨウニを付けます。 以上を簡単にまとめると、タメニは「~する」という意志を伴う目的を表し、ヨウニは「~なる」という結果を見越した目的を表す、ということになります。 それに関連してさらに言えば、ここで問題にした「~する」と「~なる」の違いは、日本語の的確な表現を行うのにとても重要です。例えば「天井に手が届く」「ブーツに足がはいる」などは、可能の意味を込めたいからといって、「天井に手が届ける」「ブーツに足がはいれる」と言うことができません。これらは「~なる」という結果の事態を表しているため、可能の形にしないのです。可能の形にできるのは「~する」という意志を伴う事態のときなのです。 意志性のあるなしは、タメニとヨウニだけでなく、日本語の他のさまざまな表現にも関わりがあるようです。

容易出错的日语表现五
「ても」と「のに」 好きなプロ野球チームを、a「弱くても応援する」とか、b「弱いのに応援する」とか言いますが、両者は似ているようで、どこか違っています。aは「どんなに弱くてもやはり応援する」と言っているように感じますし、bは「あんなに弱いのになぜか応援する」と言っているように感じられます。テモとノニとの違いは何なのでしょうか。 まず、テモしか使えない場合をみてみましょう。「国へ帰っても親切は絶対忘れない」「もしお金があっても買わない」のような想定や仮定の文はノニで言うことはできません。ノニは現実の事態を表すからです。「お金があるのに買わない」と言えば、お金があるのが仮定ではなく、現実の事態ということになります。 ノニの大きな特徴は、予想外の結果を表すということです。「いつも負けるのに今日は勝った」「勉強したのに点数が悪かった」には、「なんでやねん」と言いたくなる予想外の気持ちが含まれています。「なんでやねん」という気持ちが無い場合にノニを使うと、「少し値段が高いのに私は買える」「難しいのにやってみる」のように不自然な表現になります(これらの例はテモなら言えます)。予想外ということが基本にあるので、ノニを使うと、驚き、不満、後悔といった感情を表すことができるのです。 また、ノニは事態が過去か現在か未来かによって、「したのに」「するのに」のように、前につく語にタ形かル形かを選ばなければなりません。「食べたのに太らない」「食べるのに太らない」と、現実にいつの事態なのか言うためです。一方、テモは、「食べても太らない」と、前に付く語が時にかかわらず一定しており、「そのような状況のもとでなお・・・」という条件を表します。簡単にまとめると、テモはある条件(仮想・現実)で依然として生じる結果を導き出し、ノニは、ある事態(現実)から予想外に生じる結果を導き出すということになります。 テモとノニの基本が理解できたら、次には、「留守に誰かから電話がかかってき(たら/ても)自動的に録音できる」「みんなが残業している(ので/のに)帰るわけにはいかない」といった文で、普通なら逆の意味になる「たら/ても」「ので/のに」が、なぜ一つの文で置き換えられるのか、置き換えたときの意味の違いは何か、といったことも分かってくるでしょう。

容易出错的日语表现六
「ている」と「てある」 何年か前の日本語教育能力検定試験に、a「ドアがあいている」とb「ドアがあけてある」の違いを初級学習者に分かるように説明しなさい、という問題が出たことがあります。もし絵で答えていいなら、aはドアが完全に閉まらず風が吹き込んでいる状態、bはドアが閉まらないように椅子などで押さえてある状態を描けばいいかもしれません。それにしても、自動詞+テイル、他動詞+テアルの違いは微妙で、「電気がついている」と「電気がつけてある」の違いとなると、絵で表すのはかなり難しいでしょう。両者の違いは、見た目には現れない何かに関係するようです。 そこで、片方しか言えない場合をみてみましょう。「一万円札が破れているから、替えてもらおう」の「破れている」は「破ってある」にはなりません。逆に、「子供でも開けられるようにキャップがゆるめてある」は「ゆるんでいる」とは言えません。テイルもテアルも状態を表すことに変りはないのですが、テアルが使えるのは、誰かが作用を加えたからそのような状態になっている、と作用面に着目した場合であり、結果面に着目するテイル(誰かが作用を加えた場合も、自然にそうなった場合も可)と比べてみると、用いられる場面が明らかに異なります。 分かりやすい例で考えてみましょう。a「ビールが冷えている」とb「ビールが冷やしてある」は、はっきり意味が違います。aはビールが低い温度になっているという、結果面に着目した表現、bはビールを前もって冷蔵庫に入れるなどしたという、作用面に着目した表現です。したがって「冷やしてあるけど、まだ冷えていない」という文も可能なわけです。作用がすぐ結果に結びつかない「冷える/冷やす」「乾く/乾かす」「伝わる/伝える」などの動詞の対の場合に、テイル・テアルを付けたとき、はっきりとした意味の違いが出てくるのです。ちなみに、「あけてあるけど、まだあいていない」と言えないのは、「あける」という作用が即「あく」という結果に結びつくからです。 初級学習者には作用面、結果面といった用語で説明することができませんが、テイル・テアルの使われるふさわしい場面を考え、できるだけ分かりやすい例を多く使って指導したいものです。
 
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