天声人語 20151024 地図上の「架空の町」

ある男が深い谷川をさかのぼるうち、桃の林の奥で俗界を隔てた別天地に迷い込む――。中国の詩人、陶淵明の名高い「桃花源記（とうかげんき）」だが、似た発想の物語は世に多い。１９世紀の英国の作家バトラーの「エレホン」もその一つだ▼主人公の羊飼いが遥（はる）かな険しい山々を越えて、知られざる国エレホンにたどり着く。その奇妙な国の習慣や仕組みを通じて、小説は当時の英国を風刺する。エレホンという名は、「どこにもない」を意味する英語ｎｏｗｈｅｒｅ（ノーウェアー）の逆さ読みである▼そんなことを、きのうの国際面の記事に思い出した。米ニューヨーク州の田舎町アグローは、実際はどこにもない。地図を作った人が、複製品を見破る仕掛けとして書き加えた「架空の町」だった▼地図にだけ存在したその町が、近年、小説や映画で注目を浴びた。ネットには、あるはずのない町をめぐる謎めいた書き込みが登場し、町を探しに来る人たちも後を絶たないという。奇談めいた話を楽しく読んだ▼本当は異界のように小さな町があって、人々が静かに暮らしているのでは、などと写真を眺めて空想をふくらませた。「桃花源記」の男は小さな入り口から桃源郷に入る。俗界に帰った男は再び訪ねようとするが、道は二度と見つからない▼そういえば理想郷などと訳されるユートピアも、「どこにもない場所」という意味の造語である。山のあなたの空遠く「幸（さいわい）」住むと人のいう――。辿（たど）りえない逃げ水のような田舎町に、ふと迷い込んでみたくなる。