天声人語 20141210

１９８０年８月１９日に起きた新宿西口バス放火事件をどれくらいの方が覚えているだろう。６人が死亡した無差別犯罪だった。バスに乗り合わせ、全身の８０％に熱傷を負ったノンフィクション作家の杉原美津子さんが７日、亡くなった。７０歳だった▼事件とその後を描いた手記『生きてみたい、もう一度』を８３年に出版。今年７月には、３４年の軌跡を振り返る『炎を越えて』を出したばかりだった。近著には、被害と加害、生と死を考え続けた思索が詰まっていて、その粘り強さと深さに粛然とさせられる▼杉原さんは公判で見た被告の男を「かわいそう」と思った。学校にもろくに通えず、職を転々とする人生。社会からさげすまれる日々。それが男を犯罪に追い込んだのなら、自分も「加害者」の一人ではなかったかと自問する▼やけどの痕は隠せと両親は言った。なぜかと杉原さんは問い、傷も犯罪歴も消すことはできないと考えた。講話で訪れた少年院の子らに手紙を書き、〈自分の「過去」の上に、自分の「今」があります〉と励ました▼報道カメラマンだった兄が偶然、事件当夜の現場近くを通り、燃えさかる炎を撮った。杉原さんは今年初め、久しぶりにその写真を見て、事件後のすべてを「ただ、なつかしい」と感じたと書いている。これで自分の前に立ちふさがっていたあの炎を越えた、と▼治療時の輸血が原因の肝臓がんで余命は短いと知っていた。「被害者」としての体験を、「自身を耕す鍬（くわ）」にして生き切った。