日经春秋 20151023

「ここには旧家ってないんですよ。長く続いている家でも、せいぜい３代か４代じゃないでしょうか」。一服しようと立ち寄った喫茶店の主人に言われて、なるほど、とうなずいた。和歌山県伊都郡高野町。真言宗の聖地・高野山は明治のはじめまで、女人禁制だった。

▼女性が立ち入り、暮らすようになっただけでなく、近代化の波はこの地に大きな変化をもたらしてきた。いまやスマホだって自在につながる。電柱が目に入らない街並みには、日本の都市としては時代の先頭を走っている印象さえ受ける。それでもなお、聖地らしい独特の気配は足を踏み入れた誰もが感じるのではないか。

▼東西５キロ、南北２キロほどの範囲に100を超えるお寺。数え切れないまでに立ち並んだ供養塔のなかには、信玄や謙信、信長といった史上の有名人のものも多い。空海が嵯峨天皇の許可を得て高野山を開創してから、今年は1200年目にあたる。かくも長い歴史のなかでは、明治からの時間など短いものにもみえてくる。

▼海外から日本に来た観光客の数が、９月末で過去最高を更新した。ある調査では観光客の増え方が最も目覚ましいのは和歌山県だという。実際、高野山ではよく外国人に行き合う。円安と世界遺産の効果が大きいとみられるが、聖と俗が入り交じり、様々な記憶が積み重なって織りなす不思議な趣こそ、最大の魅力だろう。