红(3)

来源:互联网 发布:打印一体机知乎 编辑:程序博客网 时间:2024/04/27 13:23

   第三章 崩月家


 真九郎《しんくろう》は、目覚し時計を使ったことが一度もなかった。幼《おさな》い頃は母か姉が起こしてくれたし、その後は銀子《ぎんこ》に叩《たた》き起こされたし、その後も、必ず誰かが起こしてくれたから。誰かの声で目を覚ますのがどれだけ幸せなことか、一人暮らしを始めてすぐに実感した。誰かに自分の生活の一部を任せる安心感。それを失った後、機械で代用するのはあまり気が進まず、どうにか自力で起きられるように努力した。何度か学校に遅刻しそうになった紀とはあるが、そのうち慣れた。今では、だいたい決まった時間に自然と起きられる。その弊害《へいがい》があるとすれば、いつも起きる時間以外に誰かに起こされると、やや反応が遅れること。
今朝もそうだった。ドアをノックされる音ですぐに目を開けたが、意識の覚醒《かくせい》はそれについていかず、時計を見て朝六時と確認するも、真九郎はまだぼんやりとしていた。
「真九郎さん、まだ寝てますかー?」
 陽気なその声で誰だかわかり、ああ夕乃《ゆうの》さんか、何の用だろう、と真九郎は欠伸を漏らす。取り敢《あ》えず布団《ふとん》から出ようとしたが、部屋に溜《た》まった冷気に身を縮《ちぢ》めた。冬の朝、しかもこの時間ではまだ寒くて当然。電気ストーブをつけるのが先かドアの鍵《かぎ》をあけるのが先か迷っていると、また夕乃の声。
「真九郎さん、まだ寝てますか!?」
「はい、今起きました」
「じゃあ入ります」
 相変わらず朝から元気だなあ……。
 まだ眠気の残る頭でそんなことを考えながら、真九郎はまた欠伸を漏らした。夕乃はこの部屋の合い鍵を持っており、たまに訪れることがある。食材を持ってきてくれたり、部屋の掃除をしてくれたりと、いろいろ世話を焼いてくれるのだ。そこまでしてくれなくてもいいのに、と真九郎は思うが、それでも彼女の来訪は嬉《うれ》しく、迷惑ではない。
「お邪魔します」
 ドアを開いて現れた夕乃の手には、学生|鞄《かばん》と、食材の詰まったスーパーのビニール袋。 当然「おはようございます、真九郎さん」という挨拶《あいさつ》が続くものと思っていた真九郎だが、夕乃は何故《なぜ》かドアの側で立ち止まり、無言だった。心なしか、彼女の顔は少し引きつっているようにも見える。
「……どうしたの、夕乃さん?」
 彼女は答えない。
 よく見れば、その視線は真九郎ではなく、その背後へと向けられていた。
 つられて真九郎もそちらを見る。
 一瞬、思考が停止した。
 天使のような無垢《むく》な寝顔。布団から伸びた、小さく細い手足。
 全裸《ぜんら》で眠る紫《むらさき》。
 真九郎は、それを隠すように夕乃の前で手を広げ、大きく振る。
「ゆ、夕乃さん、これはその……!」
「不潔」
「いや、違うんだって! これは全然そんなんじゃ……」
「不潔」
「聞いてよ! これは……」
「……朝から騒がしいそ、真九郎」
 真九郎の後ろで、事態の火種《ひだね》が目を覚ました。紫は布団にくるまったまま体を起こし、まだ眠そうに手で目をこすりながら真九郎を見て、次に夕乃を見た。
 夕乃と紫、二人の視線がぶつかる。
 二人は、ほぼ同時に口を開いた。
「真九郎、これは誰だ?」
「真九郎さん、こちらはどなた?」
 二人に見つめられ、真九郎は言葉に詰まる。
 漂う不穏《ふおん》な空気に怯《ひる》んでいるうちに、紫が先手を打った。
「わたしは、この部屋で真九郎とドーセーしている者だ」
「ど、同棲《どうせい》……!」
 ああそんな、と狼狽《ろうばい》する夕乃に、真九郎は必死で訂正《ていせい》する。
「違う違う!全然違うからね、夕乃さん!」
「違うのか?環《たまき》から借りたマンガには、男女が同じ部屋で暮らすのはドーセーだと書いてあったぞ?」
「おまえは、居候《いそうろう》みたいなもんだろ!」
「イソーロー?」
 首を傾《かし》げる紫をよそに、夕乃は静かに肩を震わせていた。
「……真九郎さんは、そういう小さい子がお好きなんですか?」
 真九郎は弁解の言葉を探したが、焦《あせ》る頭は役に立たない。
 夕乃はよろよろと壁に寄りかかり、悲痛な面持《おもも》ちで言った。
「まさか、まさかこんな間違いが起きるなんて……。だから、わたしは一人暮らしなんて反対だったんです。俗世間《ぞくせけん》の誤った風潮は若者の心を犯し、悪い友達をたくさん作り、深夜まで遊び步くようになったり、ディスコで踊り明かすようになったり、髪の毛を金色に染めちゃったり、ロックンロールを始めてバイクで深夜の道路を暴走するようになっちゃうんです!」
「いや、あの……」
「真九郎さん、そこに座りなさい!」
 夕乃に床を指差され、真九郎は口を閉じておとなしく正座した。崩月《ほうづき》家では昔から、説教を受けるときは正座と決まっているのだ。
 両手を腰に当て、夕乃は真九郎を見下ろす。
「いいですか? 昔から男女七歳にして席を同じうせずと言って……」
 こうなった夕乃に逆らう術《すべ》を真九郎は知らなかったが、紫はお構いなしに問いかける。
「それで、おまえは誰なのだ?」
「あなたから名乗りなさい」
 年上相手に礼儀知らずの紫も問題だが、夕乃さんも大人げないなあ、と真九郎は思った。
 二人は再び視線をぶつけ合い、同時に名乗る。
「わたしは、九鳳院《くほういん》紫だ」
「わたしは、崩月夕乃です」
「崩月?」
「九鳳院?」
 二人の顔に浮かんだのは、同じ種類の驚き。真九郎だけが理由を理解できないなか、二人は真九郎に目を向けた。前よりさらに厳《きび》しい視線。
「説明しろ、真九郎」
「説明しなさい、真九郎さん」
 真九郎には、それに頷《うなず》く以外の選択|肢《し》は残されていなかった。

 

 真九郎が二人それぞれに説明すると、事態は奇妙な変化を見せた。
 夕乃も紫も、何故か黙り込んだのだ。お互いに牽制《けんせい》するように視線を合わせながらも、一言も発しない。それはまるで、予期せずして長年の宿敵に会ってしまったかのような反応。僅《わず》かな差異《さい》は、夕乃の方がしぼらくして余裕を取り戻したのに対し、紫は逆に警戒心《けいかいしん》を強めたように見えること。
 妙な緊張感の漂う室内の空気に、真九郎が居心地の悪さを感じていると、夕乃は額《ひたい》に手を当て、軽くため息を漏らした。
「……紅香《ぺにか》さんの企《たくら》みですか。困った人ですね。まあ、あの人のことですから、何もかも全部|承知《しょうち》で、真九郎さんに預けたんでしょうけど」
 本当に迷惑な人です、とぼやく夕乃。
「あの、夕乃さん、かなり怒ってる?」
「そう思います?」
「あ、まあ……」
「だとしたら、真九郎さんのするべきことは何でしょう?」
「……ウソをついてすいませんでした」
 よろしい、と夕乃は頷き、紫に目を向ける。
「それにしても、【九鳳院】の方と会うのは初めてですね」
「わたしも、【崩月】の人間と会うのは初めてだ」
 敵を睨《にら》みつけるように目を細め、紫が低い声で言う。威嚇《いかく》しているつもりらしい。
「真九郎、この女を部屋から追い出せ」
 ピシッと部屋のドアを指差す紫。
「朝から不愉快《ふゆかい》だ。何でこんな奴《やつ》と……」
「紫、その前に一ついいか?」
「何だ?」
「服を着ろ」
「そんなのはあとでも良かろう。まずはその不愉快な女を……」
「服を着ろ」
 真九郎が繰り返すと、紫は渋々《しぶしぶ》ながらも従った。部屋の寒さに気がついただけかもしれない。
 紫が服を着ている間に、真九郎は夕乃と話を進める。
「どういうこと?」
「真九郎さんは、まだそのへんのことは知らないんですね。すみません。うちのお祖父ちゃん、いい加減だから……」
「おい、真九郎! あまりその女に近づくな! 穢《けが》れが移るぞ!」
「おまえは早く着替えろ」
 紫は「うー」と唸《うな》りながら、服と悪戦苦闘を続けていた。この少女は朝がかなり弱く、口ほどには手が動かないのだ。威勢《いせい》はいいが、床に腰を下ろしながらでないと靴下も履《は》けない。
 服のボタンをはめるのに手間取《てまど》っているのを見て、真九郎は手伝おうとしたが、それより先に夕乃が近づく。自分へと伸ぽされた夕乃の手に紫はギョッとし、逃げようとするも、夕乃の手はそれを許さない。彼女には幼い妹がおり、子供の扱《あつか》いには慣れている。紫が抗議する前に手早くボタンをはめると、夕乃は朗《ほが》らかな笑みを浮かべた。
「はい、できましたよ」
「……あ、ありがとう」
「偉《えら》い。ちゃんとお礼が言えるんですね」
 紫は真九郎の方をちらりと見てから、小声で言う。
「……うるさい奴がいるからな」
 それが誰だか察したらしく、夕乃はクスリと笑った。真九郎に礼儀作法を教えたのは、主に夕乃なのだ。
「真九郎さん。今日は学校が終わったら、道場で待ってます」
「えっ、道場?」
「不健康な衝動は、運動で発散するのが一番ですから」
「いや、不健康って、俺は別に……」
「お返事は?」
「……はい、わかりました」
 夕乃は笑顔だったが、真九郎は知っている。彼女はいつも静かに笑い、静かに怒るのだ。
 道場に寄るので帰りが遅くなる、と真九郎は紫に告げようとしたが、夕乃はこう提案。
「紫ちゃんも、ご一緒にどうぞ。夕飯をごちそうします」
「いいの?」
 はい、と夕乃は頷いたが、紫本人の意思はどうか。
 真九郎が目を向けると、紫は未《いま》だに残る警戒心を視線に込め、夕乃に送っていた。
「正気か? わたしは表御三家の【九鳳院】だぞ?」
 ……表御三家?
 それは、真九郎には聞き覚えのない単語。だが夕乃には通じているのか、彼女は穏《おだ》やかに微《ほほ》笑んでいた。紫は、それを胡散臭《うさんくさ》そうに眺《なが》めていたが、やがて群たように息を吐く。
「……良かろう。裏の連中の棲家《すみか》、どんなものか興味はある」
「では、お待ちしています」
 微笑んだまま会話を終えた夕乃は、鞄の中からエプロンを取り出して身につけた。若奥さんでも通用しそうな姿で、部屋の掃除を開始。真九郎もよく掃除はする方だし、実はアパートの共用部分の掃除も担当していたりするくらいなのだが、細やかさでは彼女に敵《かな》わない。夕乃は窓を開け、まずは空気を入れ換え。
「さあ二人とも、お布団を畳《たた》んでください。良い子には、美味《おい》しい朝食が待ってますよ」
 どうしてわたしがそんなことを、と紫は言いたそうだったが、真九郎が代わりに畳もうとすると、意地になって自分でやり始めた。夕乃に弱みを見せたくない、ということなのか。
 その様子をにこやかに見ていた夕乃は、「あ、そうそう」と言い、紙袋を真九郎に渡した。
「これ、部屋の前に置いてありましたよ」
 真九郎が中を覗《のぞ》いてみると、ビデオテープとメモ用紙が一枚。メモ用紙には環の礼の言葉が簡単に書かれており、いつも米などを借りているお返しのつもりらしい。がさつな人だが、律義《りちぎ》なところもあるのだ。
 まさかまた変なビデオじゃないだろうな、と思いながら手に取って見ると、案の定、タイトルは『幼い妖精たちの誘惑』。ご丁寧《ていねい》に黒いマジックインキで『裏モノ』と注意書き。
 真九郎は、不穏なものを感じて振り返る。
 夕乃がこちらを見ていた。
 全《すべ》てを見透かすように、彼女は微笑んでいる。
 真九郎は、思いつく限りの罵声《ばせい》を環に浴びせることにした。心の中で。
 学校を終え、五月雨《さみだれ》荘に帰ってきた真九郎は、紫を連れて崩月家の屋敷へと向かった。電車の中では景色を楽しんでいた紫だが、屋敷が近づいてくるにつれて口数が減り、顔からも余裕が失《う》せていくのを見て、真九郎は心配になる。
「大丈夫か? 体調が悪いなら……」
「確認しておきたいことがある」
 紫が真面目《まじめ》な口調なので、真九郎は黙って次の言葉を待った。
「わたしを守ると誓《ちか》えるか?」
「……今さら何言ってるんだよ。守るに決まってるだろ」
「【崩月】の人間が、例《たと》えばあの夕乃という女が、わたしに牙《きば》を剥《む》いてきてもか?」
「そんなこと……」
「紅《くれない》真九郎は、わたしの味方になるのか?」
 夕乃たちが紫に危害を加えようとし、真九郎がそれと戦う。そんなの天地がひっくり返ってもあり得ない展開だと真九郎は思ったが、紫は、これから戦地にでも赴《おもむ》くかのような真剣な表情。
 プロとして、真九郎も真剣に答えることにした。
「俺は、おまえの味方になる。誰からも、おまえを守ると誓う。これでいいか?」
 紫は何も言わず、ただ真九郎の横顔をじっと見上げていたが、しぼらくして僅かに緊張を解いた。
「……頼むぞ」
「あのさ、そんなに嫌なら、別に無理に行かなくても……」
「わたしは逃げない」
 幼い声で、彼女は言い切る。
「嫌なことから逃げても、それが消えて無くなるわけではない。だから、受けて立つ」
 一度言ってみたいセリフだ、と真九郎は思った。そんな度胸《どきょう》、自分にはないけれど。
 二人は崩月家の門前に到着。崩月家は、都心から少し離れた住宅地の一角を占める古めかしい日本屋敷だ。戦前に建てられたそれはとても頑丈《がんじょう》な作りで、関東大震災の際にも、屋根の瓦《かわら》が落ちて割れた以外の被害は無かったほどだという。広い敷地を囲む高い塀《へい》、そして立派《りっぱ》な門構えは、ヤクザか政治家の家だと勘違《かんちが》いされやすいが、そんな生易《なまやさ》しいものでないことを真九郎はよく知っていた。
 真九郎が門を押し開き、二人は中に入る。石畳《いしだたみ》を步いて奥の母屋《おもや》に進み、インターフォンを押そうとしたところで、真九郎は手を止めた。いつも忘れがちだが、真九郎は合い鍵を持たされているのだ。
 隣にいる紫を見ると、やはり表情が硬《かた》い。ここも大きな屋敷だが、さすがに九鳳院家とは比べ物にならないし、それなら何を緊張することがあるのか。来る道中にも何度か尋ねたが、紫は答えなかった。世間一般には、賢《かしこ》い子供は口数も多いと思われているようだが、それは違う。本当に賢い子供は、無闇《むやみ》に話さない。話してもいいことしか話さない。そして紫の賢さは、今さら疑いようもなかった。
 夕乃さんも何か知ってるみたいなんだよなあ……。
 無言の紫を横目に見つつ、真九郎は鍵をあけてドアを開く。
「お邪魔します」
 大きな声ではないが、適度に響く声量を意識して挨拶。慣れているので簡単だった。
 真九郎は靴を脱ぎ、玄関から上がる。五月雨荘と違って軋《きし》んだりはしない頑丈な床板を踏みながら、紫が靴を脱ぐのを待っていると、廊下の奥から軽やかな足音が響いてきた。それに反応して振り返った真九郎の足に、小さな人影がどしんとぶつかる。
「お、久しぶり」
 足に抱きついている幼い少女を、真九郎は見下ろした。
「こんにちは、ちーちゃん」
 崩月家の次女、今年で五歳になる散鶴《ちづる》は、真九郎の顔を見上げて恥《は》ずかしそうに笑い、それからペコリと頭を下げる。
「……いらっしゃいませ」
 この家で最も幼い彼女は、人見知りが激しいのでほとんど外出しない。幼稚園でも友達を作らず、一人で遊んでいるらしい。彼女が心を開くのは、家族のみ。真九郎がそれに含まれているのは、彼女が生まれる前からこの屋敷に住んでいたからだろう。
 久しぶりに真九郎と会えたのがよほど嬉しいのか、散鶴は足に抱きついたまま離れようとはしなかった。ブラブラと体を左右に揺らし、真九郎を見上げては恥ずかしそうに笑う。
「真九郎、何だこの子供は?」
 ようやく靴を脱ぎ終えた紫が、自分よりも幼い少女を指差す。
「夕乃さんの妹の、散鶴ちゃんだよ。ちーちゃん、この子は九鳳院紫。仲良くしてあげて」
 散鶴は真九郎の足に抱きついたまま、探るように紫の方を見た。
「……お兄ちゃんがそういうなら、なかよく、する」
「声が小さくてよく聞こえんぞ」
 紫に堂々と不満を述べられ、散鶴は泣きそうな顔で真九郎の足の陰《かげ》に隠れる。恐る恐る紫の方を窺《うかが》い見るが、その大きな瞳《ひとみ》の迫力に怯《おび》えて、また隠れた。
 このくらいの歳《とし》でも、性格にはもう大きな差が出ている。
 その性格は多分、年月が経《た》っても心の中心にあり続けるのだろう、自分のように。
 小さな二人を見下ろしながら、真九郎がそんなことを思っていると、廊下の奥から流れるような足運びで夕乃が姿を見せる。
「お二人とも、ようこそ」
「……どうしたの、それ?」
 夕乃は、赤い袴《はかま》姿だった。
「似合いませんか?」
 その場でクルリと一回転する夕乃。
 元から和風の顔立ちをしている彼女なので、袴姿は似合い過ぎるほど似合っていた。
「実は最近、知り合いの神社でアルバイトをしてるんです、巫女《みこ》さんの」
 夕乃は短く苦労話を披露《ひろう》。外国人の観光客に神道《しんとう》の説明をしたり、男の参拝《さんぱい》客からしつこく口説《くど》かれたりと、いろいろ忙しいらしい。そんな彼女の頑張りを神主《かんぬし》は気に入ったようで、ご褒美《ほうび》として袴セットを一式|貰《もら》ったというわけだ。
 夕乃さんのお陰で参拝客でも増えたのかな、と真九郎は推測。
「それで、真九郎さんこういうのお好きかと思いまして、さっそく着てみました」
 どうでしょう、と微笑みながら問われては、真九郎も本音で答えるしかない。
「ステキだね」
「ムラムラします?」
「……多少は」
「ああ良かった。真九郎さんが正しい道に帰還《きかん》してくれて、わたし、とっても嬉しいです」「あの、念のために言っておくけど、俺、ロリコンじゃないから」
「理屈では納得しました。でも、感情ではまだです」
 女性心理は不可解だ。真九郎が思うに、女性の精神構造は、男とは別次元の設計で成り立っているような気がする。理解できるわけもない。それでも理解しようと努力するとしたら、孝の原動力は愛情か。自分には、それが欠けているのだろうか。
「真九郎」
 紫が真九郎の服を引っ張り、頭の上に疑問符を浮かべて見上げてくる。
「ロリコンとは何のことだ?」
 答えに詰まる真九郎を、散鶴もじっと見上げていた。
 二人にあるのは、純粋な好奇心。
 左右から無垢な視線を浴びせられ、真九郎は思考を放棄《ほうき》する。
「君たちは知らなくてもよろしい」
「どうして?」
「……どーして?」
 左右からの質問に真九郎が手を焼いていると、夕乃が助け船を出した。
「ロリコンというのは、悪い人のことですよ。お姉ちゃんの言うことを聞かずに一人暮らし身始めたり、お姉ちゃんと学校で会ってもあまり話をしてくれなかったり、お姉ちゃんに電話してくれなかったり、お姉ちゃんを遊びに誘ってくれなかったり、お姉ちゃんに隠し事ばかりして寂しい思いをさせたりする、悪い人のことです」
「真九郎は、悪い奴ではなかろう」
 紫のその意見に、散鶴も頷く。真九郎に対する人物評では、二人の考えは近いようだ。
 夕乃も笑顔で頷いた。
「はい、わたしもそう思います。真九郎さんは、そういう人ではありません」
 それを確認するように三人から見つめられ、真九郎は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべる。
 こういう場をカッコ良く切り抜けられるような男になりたい、と思う。
「……夕乃さん、道場に行こう」
 崩月家を訪れた用件は、夕乃との稽古《けいこ》だ。真九郎は夕乃と一緒に道場に移動することにしたが、そこで紫が見学を希望。散鶴のような子供を見て警戒心はかなり薄れたようで、今度はいろいろ興味が湧《わ》いてきたらしい。
「おまえと夕乃のするケイコというのを、わたしにも見せろ」
「ダメ」
「なぜだ?」
「子供の見るものじゃない」
「……エッチなことなのか?」
「全然違うよ! いいから、おまえは向こうでおとなしく待ってろ!」
 散鶴に頼んで、紫を奥の居間に案内してもらう。渋々ながらも、紫はそれについて行った。
自分より小さい散鶴に恐れをなしたとは思われたくないのか、大股《おおまた》で步く姿はやたらと偉そう。
 それを見送る真九郎の隣で、夕乃は口に手を当て、クスクス笑っていた。
「なんだか今日の稽古は、ドキドキしちゃいますね」
「早く道場に行こう、夕乃さん」
「道場で何するんです?」
「稽古に決まってるでしょ!」
「はい、そうでした」
 まだ笑っている夕乃の背中を押し、真九郎は道場に向かった。

 

 機嫌が良さそうに見えた夕乃だが、稽百には一切|手心《てごころ》を加えなかった。これは崩月家の人間全てに当てはまる傾向で、いざ戦いとなると情を挟《はさ》まない。
 時間にして一時間にも満たない間に、真九郎は百回以上も殴られ、蹴《け》られ、投げ飛ばされ、精根《せいこん》尽き果てる一步手前まで叩きのめされた。
「はい、今日はこれまで」
 全身|汗《あせ》まみれの真九郎とは対照的に涼しい顔で、夕乃は稽古の終了を告げた。
 道場の真ん中で正座する彼女の前まで、真九郎は床を這《は》って移動ゆ立ち上がる気力すらな
い。どうにか正座をし、倒れそうになりながらも頭を下げる。
「……ありがとうございました」
「いいえ」
 相変わらず綺麗《きれい》な正座だなあ、と夕乃の姿に見とれてから、真九郎は床にゴロンと寝転んだ。床板の下に分厚い鉄板が敷《し》かれ、壁は強化コンクリートで覆《おお》われたここは、道場でありながら、強固な檻《おり》ようにも見える空間だ。高い天井から降り注ぐ蛍光灯の光を浴びながら、呼吸を整える。全身が痛む。特に右腕が酷《ひど》い。だが、心地良い疲労だった。体力をほぼ使い切ったこの感覚は、快感でさえある。
 真九郎の学ぶ格闘技は便宜《べんぎ》上、崩月流と呼ぼれている。だがそれは、いわゆる武術とは一線を画《かく》するものだった。武術とは、基本的には誰でも学べるもの。個人差はあれど、ある程度は誰でも再現できるもの。崩月流には、そうした普遍性がない。前提としている条件が、あまりにも厳しすぎるのだ。紙製の機体にジェットエンジンを載せても、空は飛べない。粉々になるだけ。それと同じ理屈。
 まあ、こいつは、我が家に伝わるケンカ殺法《さっぽう》みてえなもんだな……。
 真九郎の師匠《ししょよう》である崩月|法泉《ほうせん》は、崩月流をそう表現していた。
 夕乃が生まれる前には他にも弟子《でし》が何人かいたらしく、道場もその頃に作られたそうだが今では真九郎一人しかいない。この広い道場を独占し、法泉や夕乃から付きっきりで学べた自分は恵まれている、と真九郎は思う。
 未だ呼吸が正常に戻らない真九郎の顔を、夕乃がタオルでそっと拭《ふ》いてくれた。情けないかやめてほしいというのが真九郎の本音だが、今はそれを口にする余力さえない。
 冷たいタオルと、彼女の優しい手つきの気持ち良さに、真九郎は目を閉じてしまう。
 最初の頃を思い出す。
 小学二年生のとき、真九郎は唐突《とうとつ》に家族を失った。大好きな家族を全員失った。真九郎は死のうと思った。そうすれば家族に会えると思ったから。でも死ねなかった。あまりにも弱い自分は、家族を失い、もう生きていけそうにないのに、死ぬ勇気がなかったのだ。一人で生きるのは怖い。一人で死ぬのも怖い。生きる勇気も死ぬ勇気もない自分。銀子の家に引き取られた真九郎は、ただ虚《うつ》ろに毎日を過ごした。その間にどんな出来事があったのか、まるで記憶にない。どうでもいい期間。銀子も、そして銀子の両親も、真九郎を気遣《きづか》ってとても優しくしてくれたが、それさえ当時の真九郎にとってはどうでもいいことだった。寂しくて、悲しくて、死にたくて、死にたくなくて、一人になりたくて、誰かにいて欲しかった。頭の中はグチャグチャだった。
 そして事件が起きた。銀子に無理やり連れ出され、近所の児童館に行ったときのこと。家に閉じこもりがちだった真九郎を銀子は心配し、同じ年頃の子供がたくさんいる児童館ならどうかと考えたのだろうが、真九郎は何も感じなかった。銀子が鋳ってきてくれたマンガやゲームにも目を向けず、誰かに話しかけられても答えず、真九郎は膝を抱え、部屋の隅でぼんやりとしていた。それでも銀子は側《そば》にいてくれたが、真九郎は一言もしゃべらなかった。何もかもがどうでもよかった。銀子がため息を吐《つ》き、もう帰ろうか、と言って真九郎の手を掴《つか》んだとき、周りが急に騒がしくなった。大人たちの叫び、子供たちの悲鳴、そして銃声。突然、体の大きな外国人たちが何人も土足《どそく》で室内に上がりこみ、その手にはテレビでしか見たことがない機関銃が握られていた。わけもわからないうちに、子供たちは全員外に連れ出され、トラックの荷台に乗せられた。真九郎と銀子も乗せられた。数人の男たちが荷台に同乗し、口を開いたら殺す、と片言《かたこと》の日本語で脅《おど》し、それが通じなかったらしい子供が騒ぐと、銃の引き金《がね》を引いた。ガガガ、と連続した銃声が響き、子供の頭がトマトのように破裂し、やめてーっ、と叫んだ子供の頭も破裂し、その一部が真九郎の顔にまで飛び散った。隣にいる銀子が悲鳴を漏らしそうになるのを見て、真九郎は素早く彼女の口を塞《ふさ》いだ。この出来事に興奮《こうふん》し、久しぶりに思考が働き、体も動いたのだ。荷台には幌《ほろ》がかけられ、外からは見えないようになっており、このまま何処《どこ》かへ運ばれるようだった。子供の死体は外へ放り捨てられ、残った子供たちが怯《おび》えながら口を閉ざすなかで、真九郎は考えた。この連中は外国人。白昼堂々の集団|誘拐《ゆうかい》。そんなことあり得ないという日本の常識を、外国の犯罪者たちは簡単に覆《くつがえ》す。前にニュースで見たことがある。海外の人身売買組織が日本に上陸し、既《すで》に地方の山村などで数十件の誘拐事件を起こしていると。商品の強制的な補充だ。警察も動いてはいるが、裏に海外の有力なマフィアが複数関与《かんよ》し、それに政治的なものが絡《から》まって、捜査は進展していないらしい。こいつらがそうなのか、という真九郎の考えは正しかった。トラックの荷台から下ろされた頃にはもう日が暮れかけていたが、軽く視線を動かせば船が見え、そこが港だとわかった。子供たちは一列に並ばされて步き、港に停泊していた一|隻《せき》の大きな貨物船に乗せられた。辺《あた》りには日本人も多くいたが、全員が犯人の仲間らしく、子供たちを見る目は冷たかった。感情のない、ただの商品を見る目。
 暗い船倉《せんそう》に閉じ込められた子供たちは、当然のごとく泣き出した。真九郎以外は、みんな泣いていた。普段はあんなに強気の銀子でさえ、泣いていた。ねえどうしよう真九郎。あたしたちどうなるのかな真九郎。真九郎は教えてあげた。売られるんだよ銀子ちゃん。僕たちはみんな外国に連れて行かれて、そこで売られるんだよ。銀子は真九郎に抱きつき、そんなのウソ、絶対ウソだよ、と言いながら泣いた。真九郎は泣かなかった。泣く必要はない。だって、こんな幸運が訪れたのだ。悲しくはない。ちょっと怖いけれど、でも、嬉しさの方が大きい。
 死ねる。このままいけば、自分は死ねる。
 売られるのは、きっと健康な子供。美しい子供。賢い子供。自分はどれにも当てはまらない。それどころか、体の弱い自分は、心の弱い自分は、出航した船が次の港に着く前に死んでしまう可能性が高い。自殺は怖くてできないけれど、このどうしようもない状況が、絶対逃げられない状況が、自分を殺す。ああ、やっと死ねる。これで会える。お父さんに、お母さんに、お姉ちゃんに、また会える。嬉しい。
 チャンスは意外と早くきた。船倉の扉が開き、犯人たちが中に入ってきたのだ。男の子を蹴飛《けと》ば、女の子だけを選んで立たせていく。ここで男女を選別し、それぞれ別の場所に閉じ込めるのか。あるいは、犯人たちの妙にギラついた目からして、女の子たちにだけ特別の用があるのか。銀子も犯人に腕を掴まれ、強引に立たされた。品定めをするように服をめくられた銀子は、犯人の顔を平手打ち。やっぱり銀子ちゃんは強いな、と真九郎は思った。犯人が、何か外国の言葉で銀子を罵《ののし》り、彼女の顔に銃口を向けるのを見て、真九郎はその前に立ち塞がった。幼なじみを助ける。そして死ねる。最高だ。何も文句はない。背後で銀子が何か叫んでいたが聞かず、真九郎は銃口から死が吐き出されるのを待った。
 そこに忽然《こつぜん》と、一人の女が現れた。
 トレンチコートを羽織《はお》った若い女は、日本人のようだったが、あまりにも貫禄《かんろく》があり過ぎた。まるで全てを仕切るボスのような足取りで、船倉の中へと踏み入る。女が口に銜《くわ》えたタバコからゆったりと紫煙《しえん》を吐き出したところで、しぼし呆然《ぽうぜん》と見つめていた犯人たちは、ようやく罵声とともに銃口を向けた。そこからは、圧倒的だった。犯人たちの暴力を、女はそれ以上の暴力で叩き伏せた。それはまるで、暴力の竜巻《たつまき》。その凄惨《せいさん》な光景を目《ま》の当たりにして、周りの子供たちは怯え、銀子も真九郎の背中に隠れるようにして見ていたが、真九郎だけは違っていた。
 これだ、と思った。
 この強さだ、と思った。
 死の衝動など消し飛ばすような感動。自分もこうなれば、こんなふうに強くなれば、もしかしたら、これからも生きられるかもしれない。家族がいないこの世界でも、生きられるかもしれない。
 ほんの十数秒で場は静まり、女に遅れて入って来た数人の男たちが子供を助け出すなか、真九郎は女の方に步み寄った。このときが、紅真九郎の人生の分岐《ぶんき》点。ダメだよ真九郎。その人は怖い。近づいちゃダメ。その人に関《かか》わったら大変なことになる。銀子のそんな言葉を無視して、真九郎は女の前で言った。
 僕を、あなたの弟子にしてください。
 女はタバコの灰を床に落とし、怪訝《けげん》そうに真九郎を見下ろした。
 どうして?
 強くなりたいんです。
 どうして?
 生きるためです。
 真九郎の何が女を動かしたのかはわからないが、女はしばらく真九郎の顔を見つめ、それから自分のあとについてくるように言った。銀子が止めるのも聞かず、真九郎はそれに従った。
 新たなタバコを街えながら、女は尋ねた。
 おまえ、名は?
 紅真九郎。
 奇縁《きえん》だな。わたしの名と同じ字が一つ。
 女は少し笑ってから、自分は柔沢《じゅうざわ》紅香だと名乗り、続けて言った。
 わたしは、誰かに学んで強くなったわけじゃない。だから、誰にも教えられない。
 そして真九郎は、崩月の屋敷に連れてこられたのだ。
 屋敷の主《あるじ》に、紅香は言った。
 崩月の旦那《だんな》。このガキ、ちょっと面白《おもしろ》いんで、試してみてください。
 興奮と緊張に包まれた真九郎を、崩月法泉が見下ろし、その傍《かたわ》らには真九郎と歳の近い少女、夕乃がいて、真九郎のことをじっと見つめていた。
 そこから今に至《いた》る八年間。それは、真九郎にとって最も充実した期間。
 内弟子として屋敷に住まうことを許された真九郎は、法泉の指示に従い、その全てを崩月流の修得へと捧《ささ》げた。体中の骨で、一度も折れてない箇所はない。何度も折られ、砕《くだ》かれ、叩き潰《つぶ》され、内臓の位置さえ変わるような修行をした。常軌《じょうき》を逸《いっ》した肉体改造。肉も骨も、崩月の力を使うのに適したものへと変えていったのだ。
 銀子は怒った。真九郎の考えがおかしいと怒った。そんなの理解できないと怒った。
 何度も何度も銀子は真九郎を説得しようとしたが、真九郎は決して耳を貸さなかった。
 強くなりたかったのだ、どうしても。
 その必要があったのだ、どうしても。
 家族を失った自分には、生きるためのたしかな力が必要だったのだ。
 だから頑張った。努力した。でも、それは、結局……。
「真九郎さん?」
 夕乃の優しい声に、真九郎は目を開ける。体力が三割は回復していた。この回復力も、修行の賜物《たまもの》だ。
 床に手をつき、体を起こした真九郎に、夕乃は言った。
「大分体に馴染《なじ》んできましたね」
「……まあ、何とか」
 右腕がまだ痛む。血管を通して、全身に広がっていくような痛みだ。異物を埋め込まれた体としては、正常な反応だろう。これでも当初に比べれば、かなり楽になった方なのだ。埋め込まれた最初の夜は、死にそうなほどの痛みに襲《おそ》われた。そのとき、真九郎の側に付き添ってくれたのは夕乃だった。彼女は一睡《いっすい》もせず、真九郎の手を握りながら、声をかけ続けてくれた。あの夜を乗り越えられたのは夕乃のお陰だと、真九郎は思う。
「まだ、実戦で使える段階ではないでしょう。今のままでは、どれだけ肉体を傷《いた》めるかわかりません。最悪の場合、寿命《じゅみょう》を縮めてしまうかもしれない。ですから、お祖父ちゃんの許しがあるまでは使用を禁じます」
「別に、そんなに長生きしたいわけでもないけどね」
 もし紅香に出会わなければ、銀子を守り、散っていた命だ。
 生きることを真九郎は選んだが、それは正解だったのか。成功だったのか。
「そんなことを言ってはいけません」
 夕乃は、弟をたしなめる姉のような顔になる。
「人間の体は脆《もろ》いのです。簡単に壊れます。でも、大事にすれば一生使えます。だから、大事にしてください。わたしは、これからもずっと、あなたと一緒に生きたいと思っていますよ」
 心配してくれることに感謝しつつも、真九郎は苦笑した。
「なんか、それ、プロポーズみたいだね」
 夕乃は僅かに頬《ほお》を赤くし、ごほん、と一つ咳払《せきばら》い。
「そ、そういうことは、やはり殿方《とのがた》の方から言っていただかないと……」
「えっ?」
「何でもありません」
 誤魔化《ごまか》すようにいさ務はまた咳泓い。
「とにかく、日々精進し、邪念に惑わされることのないようにしてください」
「はい」
「いかがわしいビデオは、全て捨てるように」
「……はい」
「とはいえ、真九郎さんもお年頃。そういうことに興味を抱いてしまうのは仕方がないことです。ああ今日も夕乃さんは可愛《かわい》いな。下着は何色だろう。ときには、そんなことを考えてしまうこともあるでしょう」
「別にそういうのは……」
「あるはずです」
「いや……」
「あります」
 断定された。そうでなきゃダメですって顔だった。
「……あー、はい、あるかも」
「いけませんよ、もう、真九郎さんたら……」
 ちょっと嬉しそうに怒る夕乃。
 何なんだよ、と真九郎は内心で愚痴《ぐち》をこぼすが、もちろん口には出さない。
 昔から、どうも彼女には逆らえないのだ。
「前に、保健の先生から聞いたことがあります。殿方のそういう衝動を抑圧するのは、体に良くないそうですね。ですから、もし、どーしても我慢《がまん》できなくなったら、わたしに言ってください」「えっ?」
 動揺する真九郎に、夕乃は明快に説明。
「その邪念が消え去るまで、徹底的に、しごいて差し上げます。嬉しいですか?」
「……光栄です」
 弟子としては、笑顔で頷くしかなかった。

 

 庭に出て井戸水を汲《く》み上げ、その殺人的な冷たさに身を震わせながら、真九郎は汗を洗い流した。タオルで体を拭いて縁側《えんがわ》に上がり、廊下を進む。そして居間に向かう途中で、真九郎は足を止めた。かつての真九郎の部屋の前。扉を開いてみると、自分の使っていた勉強机がまだ残っていた。埃《ほこり》は積もっておらず、綺麗に掃除されているようだ。五月雨荘の5号室よりもずっと広く、清潔で明るい部屋。
 何度も師匠から言われている。いつでも、ここに戻ってきてよいと。
 ……それは無理だ。
 思い出が甦《よみがえ》る前に、真九郎は扉を閉めた。
 廊下を步いて居間に行き、紫の姿を捜すと、意外にもおとなしくしているようだった。ストローでジュースを飲みながら、テレビの前でアニメを観《み》ている。紫から微妙な距離を開け、散鶴も同じようにアニメを観ていたが、真九郎を見つけるとすぐに駆け寄ってきた。小さな体を受け止め、真九郎は彼女を抱き上げる。散鶴のおしめを替えたこともある真九郎にとって、彼女は妹も同然。
「ふん、ガキだな」
 その光景を横目で見た紫は、つまらなそうにストローを銜える。
 何を拗《す》ねてるんだか、と真九郎が呆《あき》れていると、台所から、夕乃と散鶴の母である冥理《めいり》が姿を見せた。足りない生活用品はないか尋ねられ、小遣《こづか》いまでくれそうになったので、真九郎は慌《あわ》てて断る。何でも手伝いますと真九郎は申し出たが、殿方はお待ちくださいと言われてしまった。散鶴も手伝いを希望したので、真九郎は彼女を床に下ろす。母のあとを追って散鶴が台所の方へと消えるのを見届け、紫に目を向けると、彼女は何やら恨《うら》めしそうな顔。「ケイコとやらは、楽しかったか?」
「まあ、それなりに」
「あまりに長いので、わたしの存在は、もう忘れられたのかと思っていたぞ」
 ストローを街え、ジュースをブクブクと泡《あわ》立てる紫。
 別れて一時間も経っていないが、真九郎に放っておかれたことが不満らしい。
「……悪かったよ」
「おまえ、ちゃんと誓いは覚えているだろうな?」
「何があっても、誰からも、俺はおまえを守る。でもここは、みんないい人ばかりだろ?」
「さて、まだわからんぞ」
 すっかり気を抜いているように見えながらも、紫はまだ警戒心を残しているのか。
 何が彼女を、ここまで警戒させるのか。
 いい加減に理由を教えて欲しいところだったが、ほどなくして師匠が帰宅。真九郎は疑問を保留にし、師匠に挨拶することにした。

 

 真九郎の師匠、崩月法泉は、齢《よわい》七十を超える老人である。その浴衣《ゆかた》姿はまるで昭和《しょうわ》初期の文豪のようで、荒事《あらごと》とは無縁《むえん》にしか見えない。しかし、あの柔沢紅香が「絶対タイマン勝負したくない相手」と断言し、一目置くほどの人物だ。
「……おまえが【崩月】の当主か?」
 法泉と対面した紫は、警戒心を隠そうともせず、睨みつけるようにしてそう言った。もしものときは盾《たて》にする、という理由で、真九郎は彼女の側に控《ひか》えさせられている。
 紫のそんな態度を見ても、法泉は自分の孫に対するように微笑んだ。崩月家の人間は、基本的にとても穏やかな気性の持ち主ばかり。強者ほど感情を制御《せいぎょ》する術《すべ》に長《た》けていることを、真九郎はこの屋敷で生活しながら知った。
「お嬢ちゃん、焼きイモ食うかい?」
 法泉は、碁会所《ごかいじょ》の帰り道で買ったらしい焼きイモを紙袋から取り出し、手ごろな大きさの一つを紫の前で折って見せる。山吹色《やまぶきいろ》の中身から温かな湯気が昇り、ほのかに甘い香りが漂った。まだ食欲優先の部分が多い紫は、初めて見る焼きイモに興味を引かれたらしく、法泉に渡されるとすぐに口に入れようとしたが、そこで思い留まり、真九郎に渡した。
「毒見しろ」
 何て用心深さだ、と呆れながら真九郎が一口|翻《かじ》って見せ、どうやら大丈夫そうだとわかると、紫も食べ始める。もぐもぐと頬張《ほおば》り、「おお」と感嘆《かんたん》を漏らしながら焼きイモを眺め、また一口。かなり気に入ったようだった。
 食べる手を止め、紫は法泉に礼を言う。
「美味《うま》いな。ありがとう」
「なんのなんの」
 法泉は大らかに笑い、真九郎にも焼きイモを渡そうとしたが、そこで夕乃に見つかった。
「ダメじゃない、お祖父ちゃん。夕食前よ?」
 法泉は「ああ、すまんすまん」と頭を掻《か》き、「で、おまえ、何で袴姿なんだ?」「いいでしょ、別に」「真九郎の趣味か」「いいでしょ、別に」などという会話を夕乃としてから、焼イモを抱えて台所に消える。
 夕乃は、真九郎の顔をちらっと見ると、
「これ、似合ってますよね?」
「うん」
「ムラムラしますよね?」
「……うん、まあ」
「じゃあ、まだ着てます」
 と言ってニッコリ微笑み、台所に引っ込んだ。
 よくわからないが、夕乃の機嫌が良いみたいだからいいか、と真九郎が思っていると、今度は台所から散鶴が現れた。小さな手で大皿を運ぶのを見て、手伝うために真九郎は立とうとしたが、紫に服を引っ張られる。
「はわえるわ」
 口一杯に焼きイモを頬張りながらなので聞き取りにくいが、「離れるな」と言ってるつもりらしい。困った様子の真九郎を見かねたのか、散鶴が紫に一言。
「……わがまま」
 紫はむっとして反論しようとするも、口に詰めこんだ焼きイモがそれを邪魔し、飲み込もうと努力しているうちに散鶴はさっさと台所に戻って行った。ようやく焼きイモを飲み込んだ紫は、笑いたそうな真九郎をキッと睨んでから、憤然《ふんぜん》として言う。
「生意気なガキだ」
 おまえがな、と真九郎は声に出さずに訂正し、仕方なく彼女の側に留まることにした。

 

 大きな黒檀《こくたん》のテーブルを囲み、夕食は和《なご》やかに進んだ。刺身《さしみ》と焼き魚、それに豚汁《とんじる》や肉じゃがなどの和食を中心とした内容で、その慣れ親しんだ味を真九郎は楽しみ、隣にいる紫も箸《はし》はよく動いていた。今は海外に出張中である夕乃と散鶴の父の話や、たわいのない世間話をしながら夕食は終わり、冥理と夕乃が後片付けを始める。
「紫ちゃん、ちーちゃんと一緒にお風呂に入ってきたら?」
 この後のことを考えて、夕乃がそう提案。紫は渋ったが、真九郎が崩月家の風呂はすごいぞ」と言うと、少し興味を示す。「何がすごいのだ?」「全部、木でできてる」「ほう、木でできた風呂か」という二人の会話を聞き、夕乃が「今日は、ゆず湯ですよ」と補足《ほそく》。
「かんきつ類を浮かべた、木でできた風呂か……」
 好奇心に負けたのか、紫はやがて頷いた。また夕乃に誤解されると困るので、風呂上がりには必ずハスタオルを巻くよう、真九郎は紫に指示。紫は、「ま、良かろう」と承諾《しょうだく》。そして、散鶴と共に風呂場へ。
 子供たちが消えたところで、テーブルの上には夕乃が俺れたお茶と、冷蔵庫で冷やされた焼きイモが用意された。
「紅香のやつも、面倒《めんどう》なことを頼みやがったもんだな」
 焼きイモを醤りながら、法泉が言う。
「真九郎をうちの人間と承知で九鳳院の子を預けるところが、らしくはある。あいつは無頓着《むとんちゃく》というか無節操《むせつそう》というか、そのあたりの事情を屍《へ》とも思ってやがらねえ……」
 気になっていたことを真九郎は尋ねたかったが、まずは師匠の発言が済むのを待つ。夕乃や冥理、そして散鶴には砕けた態度で接する真九郎も、さすがに師匠である法泉には礼儀を守る。そんなの水臭いです、と夕乃にはよく叱《しか》られるが、けじめのようなもの。自分に様々なことを教え、肉体の一部さえ与えてくれたこの老人を、真九郎は尊敬していた。
 真九郎の心情を察し、夕乃が代わりに口を開く。
「お祖父ちゃん、例のこと、そろそろ真九郎さんにも教えてあげたら?」
「……まあ、いい機会か」
 何かを思案するように目を閉じ、法泉はお茶を飲んだ。真九郎もお茶を飲んでいると、夕乃が丁寧に皮を剥いてから、焼きイモを渡してくれた。そのくらい自分でできるのになあ、と思いながらも、真九郎は礼を言って受け取る。甘党の法泉が選んだ焼きイモは冷えることでより甘味が増しており、それを床わいつつ師匠の言葉を待った。
 法泉は目を開けると、顎《あご》を摩《さす》りながら言う。
「その話の前に、おめえに訊《き》いときてえことがある。真九郎、正直に答えろ」
「はい」
 緊張して身構える弟子を見据《みす》え、師匠は言った。
「もう済ませたのか?」
「何をですか?」
「せっかく一人暮らしを始めたんだ。夕乃とは、もう済ませたのか?」
 真九郎の隣で、夕乃が激しくむせていた。お茶が気管に入ったらしい。真九郎が手で背中を摩ると、夕乃はそれに礼を言ってから、祖父に猛抗議。
「お、お祖父ちゃん! いきなり何を破廉恥《はれんち》なこと言っちゃってるんですか!」
「破廉恥ってなあ、おまえ、真九郎の筆下ろしのことだぞ?」
「不潔です! 下品です!」
「頭固いのう。俺が真九郎と同じ歳の頃なんて、そりゃあもう……」
「真九郎さんは、そんな人じゃありません!」
「何だ、まだしてねえのか?真九郎、師匠の孫娘だからって、別に遠慮《えんりょ》するこたあねえんだぞ?俺はそのへん、理解あるつもりだしな。夕乃のやつ、これでもよく恋文を貰ってくるし、あんまモタモタしてると他の誰かのもんに……」
「なりません! そんな気は全然ないです!」
「おまえ、そんな貞操《ていそう》観念ガチガチで、嫁に行き遅れたらどうするよ?」
「心配いりません! ちゃんと、しかるべき人がもらってくれます! ね、真九郎さん?」
 何で俺に確認するんだろう、と思いながら、真九郎は「はあ……」と曖昧な返事。
 老いてなお盛んな法泉は、孫娘と真九郎が親交を深めることを多いに奨励《しょうれい》しており、その方面ではやたらと寛容。真九郎が崩月家を出る際、五月雨荘を勧《すす》め、様々な便宜《べんぎ》をはかってくれたのは法泉だが、真九郎が一人暮らしを希望した理由は、何やら誤解されている節《ふし》があった。
その誤解をときたくとも、本当の理由は口にできないので、真九郎としてはどうしても曖昧な態度になってしまう。
 法泉と夕乃、どちらにも加勢できずに真九郎が傍観《ぼうかん》していると、廊下から冥理の声。
「お父さん、日村《ひむら》さんからお電話ですよ」
「おう、そうかそうか」
 法泉は軽い足取りで廊下に向かい、電話で少し話してから、ちょっと出てくると言って玄関へ。夕乃が教えてくれたところによると、最近碁会所で知り合ったお婆さんと親しくなり、交際中であるらしい。まだ話の途中だったのだが、色恋|沙汰《ざた》を優先するところが師匠らしいなあ、と真九郎は思った。
「真九郎さんは、ああなってはダメですよ」
 祖父の身勝手さを呆れるように息を吐き、夕乃はお茶を滝れ直す。
「殿方の愛は、それ全て家族に向けられるべきもの。浮気なんてもってのほかです」
 基本的には祖父を尊敬している夕乃だが、若い頃から浮気|癖《ぐせ》がある点だけは軽蔑《けいぺつ》しているらしい。亡くなった法泉の妻も、夫のそういう部分には苦労していたそうなので、それを見て育った孫の夕乃としては当然の心境なのかもしれない。
「真九郎さん、わかりましたか?」
「はい」
 よろしい、と夕乃は頷き、お茶を真九郎の前に置いた。
「えー、では僭越《せんえつ》ながら、わたしがご説明しましょう。たいして複雑な話でもありませんが、何か質問があるときは、ちゃんと手を挙げるように」
「手を挙げるんですか?」
「夕乃先生、と呼んでください」
 ニッコリ微笑み、夕乃は語り出す。
「まずは、裏十三家について」
 裏十三家とは、近現代まで裏世界で勢力を持っていた十三の家系のこと。
【歪空《ゆがみそら》】【堕花《おちばな》】【斬島《きりしま》】【円堂《えんどう》】【崩月】【虚村《うつろむら》】【豪我《ごうが》】【師水《しみず》】【戒園《かいえん》】【御巫《みかなぎ》】【病葉《わくらば》】【亜城】《あじょう》【星噛《ほしがみ》》。今ではその半数近くが廃業、あるいは断絶しているが、その勇名.悪名.凶名は未だに裏世界で影響力を残しているという。
「では次に、表御三家について」
 表御三家とは、表世界で絶大な権刀を握る三つの家系のこと。
【九鳳院】【麟麟塚《きりんづか》】【皇牙宮《こうがのみや》】。
 いずれも財閥《ざいばつ》、そして名家中の名家なので、真九郎も名前だけは知っていた。
「俗権力を代表する表御三家と、闇《やみ》権力を代表する裏十三家。表の英雄と、裏の蛮雄《ぱんゆう》。この十六家が上手《うま》くバランスを取り、国を支えていた時代もあったとか。ずっと昔の話ですね。今では、表は栄華《えいが》を極《きわ》めたのに対し、裏は衰退《すいたい》の一途《いっと》なわけですし。中には、【円堂】のように表の権力と融和《ゆうわ》した家系もありますけど……」
 夕乃がお茶を飲んで一息つくのを見て、真九郎もいくらか冷めたお茶を飲み干す。
「表御三家と裏十三家ね……」
 焼きイモの残りを口に入れると、夕乃が新たなお茶を滝れてくれたので、礼を言ってまた飲む。そうして落ち着いてから、真九郎は言った。
「……それって、本当の話?」
 夕乃は答えない。澄《す》ました顔で、お茶を飲んでいる。
 真九郎は少し考え、手を挙げた。
「夕乃先生、質問があります」
「はい、出席番号8番、紅真九郎くん」
 出席番号まであるのか、と思いながら真九郎は質問。
「今の話、本当なんですか?」
「わたし、真九郎さんにウソを教えたことなんて一度もありませんよ」
 それはそうだ。彼女はいつでも誠心誠意、自分に接してくれる人。
 欺《あざむ》かれたことはない。
 それでも正直、あまりピンとこない話だった。
 崩月家が普通の家系でないことは十分に承知しているし、代々裏世界に関わっていたことも以前に聞いている。だが、かつてはそんな大きな勢力の一部を担《にな》っていたことまでは想像がつかなかった。九鳳院、麟麟塚、皇牙宮という名の知れた財閥が表御三家と呼ばれているということも初耳。
 御伽噺《おとぎばなし》じみてるよな……。
 真九郎がそんなことを思っていると、夕乃は話を続ける。
「わたしには生憎《あいにく》と備わってませんが、霊視能力のある人によると、この世には至る所に霊がはびこってるそうですね。死霊とか悪霊とか、いろんなのが。わたしにはそれは見えません。でも、何の支障もなく生活できます。今の知識も、似たようなものです。知らなくても平気ですが、知っていれば少しだけ役に立つかもしれない、という程度のもの。重要度で言えば、学校の授業の方がずっと上です。まあ、頭の隅にでも置いといてください。ただ、これだけは忘れないで、真九郎さん。あなたは我が家の、つまりは【崩月】の人間。あなたは既に、裏十三家に組みこまれている」
 他人事《ひとごと》ではない、ということ。この崩月家で長く寝食をともにし、法泉の力の一部を受け継いだ真九郎は、関係者であるのは間違いない。
「そして、あの紫ちゃんは表御三家に組みこまれている。しかも、表御三家の中でも突出した力を持つ、【九鳳院】の娘。彼女が我が家を警戒しているのは、それが理由です。表御三家では、表を清流、裏を濁流《だくりゅう》と称し、接触を禁じているらしいですから。要するにバイキン扱いなんです」
 穢れがどうのこうのと言っていた紫の態度は、そういう意味か。
 彼女は九鳳院家で、そう教えられたのだろう。
 だから崩月家の人間である夕乃を警戒し、真九郎にも自分を守るよう言いつけた。
「わたしも詳《くわ》しくは知らないんですが、いろいろ因縁《いんねん》があるみたいですよ。我が家はこんな家風ですから、お風呂だって貸しちゃいますけど」
 夕乃の話を聞きながら、真九郎は考える。
 裏と表、それはまさに自分と紫のようだと。自分はこれからも揉《も》め事処理屋を続け、世間的な成功とは無縁の人生を步む。紫は、九鳳院家の人間として表の世界を、輝かしい人生を步むのだろう。羨《うらや》ましい、とは思わない。大変だな、とは思う。
 周囲からの期待と重圧はどれほどのものか。真九郎には、とても耐えられそうにない。
 真九郎は夕乃の湯呑《ゆの》み茶碗《ちゃわん》が空《から》なのに気づき、お茶を滝れ直そうとしたが、彼女の表情がいつになく暗いのを見て手を止める。
「夕乃さん、どうかした?」
「……よーく考えたら、我が家が紫ちゃんに嫌われるのも当然かなって」
「そんなこと……」
「真九郎さん、我が家は人殺しの家系です」
 真九郎は、部屋の中が急に薄暗くなったように感じた。もちろん気のせいだ。天井の蛍光灯に異常はない。夕乃の言葉が真実だと知る真九郎の感覚が、沈んできているだけ。暗くて暗くて、ただ暗い場所へ。学んだ真九郎はよく理解している。崩月家が伝えるのは、人を殺すための力と技《わざ》。それを用いて、崩月家はどれだけの人間を殺してきたのか。法泉の代で裏世界から引退はしたが、その力と技は絶えていないし、夕乃と散鶴の後の代まで伝えられていくだろう。人殺しの力と技を伝えていく。家系が、それを伝えるシステムと化しているのだ。
 いつもより感情の薄い声で、夕乃は言葉を続ける。
「血に積れが宿るなら、わたしの血は猿れています。それはもう酷いものでしょう。さっきの霊視能力の話ですが、わたし、そういう力が無くて本当に良かったと思っています。もしもそんなものがあったら、我が家の糠れを目の当たりにして生きていかなければなりません」
 どう声をかけたら良いかわからず、真九郎が俯《うつむ》いていると、その顔を覗きこむようにして夕乃は言った。
「……怖いですか?」
 彼女はそう言ったが、本当に言いたかった言葉が何か、真九郎は察することができた。
 後悔してますか?
 彼女はきっと、そう言いたかったのだ。
 この崩月家に関わったことを、真九郎が後悔しているのではないかと、自分と出会ったことさえ後悔しているのではないかと、夕乃はそんな心配をしている。
 そんなはずがないのに。
 裏十三家も表御三家も、全然怖くはない。人殺しの力と技も、怖くはない。
 真九郎が本当に怖いのは、そんなものではない。
 真九郎は顔を上げる。
「俺、夕乃さんのこと好きだよ。崩月家の人たちのことは、みんな大好きだ」
 身寄りのない自分を引き取り、家族の一員として、優しく厳しく接してくれた。どれだけ感謝しても足りないほど、この家の人たちには感謝している。
 だからこそ、言えないことがあった。言ってはいけないことがあった。
 ……ああ、早く五月雨荘に帰りたい。
 あまり長く、ここにはいたくない。
 早く、この家の人たちから遠ざかりたい。
 内心の混乱を顔には出さぬよう真九郎が努力していると、夕乃が控え目な口調で言った。
「あのー、真九郎さん。一つお願いがあるのですが……」
「ん、何?」
「もう一度言ってもらえません、今の言葉?」
「えっ、今のって?」
「真九郎さんが、わたしのことを、その……」
 夕乃は頬を赤らめ、両手の人差し指を突つき合わせながら、ゴニョゴニョと口籠《くちご》もる。夕乃さんにしては発音が不明瞭《ふめいりょう》だ、などと真九郎が思っていると、廊下の方から軽やかな足音。真九郎がそちらを向くと、体にバスタオルを巻いた散鶴が腕の中に飛び込んできた。真九郎は彼女を柔らかく受け止め、まだ少し濡《ぬ》れている頭を撫《な》でる。
「いいとこだったのにぃ……」
 悔《くや》しそうにため息を吐き、夕乃は小声で眩いた。
「やれやれ、落ち着きのない奴だ」
 散鶴の後に続いて、こちらは悠々《ゆうゆう》と廊下から現れる紫。真九郎の指示通り、体にはパスタオルを巻いており、風呂上がりの火照《ほて》った顔は上機嫌だった。総ヒノキ作りの風呂も、ゆず湯も、どちらもお気に召したらしい。
 真九郎に抱きついたままの散鶴を見て、紫はバカにするように鼻で笑う。
「ふん、ガキめ」
 わたしはそんな幼稚なことはしない、という態度で、紫は使用人に命令。
「おい、真九郎。そろそろ帰るぞ。着替えを用意しろ」
「あ……」
 そこで初めて着替えを忘れたことに真九郎は気づいたが、夕乃が「ちょっと待っていてください」と言い、奥の部屋に消える。
 その間に、紫は冥理からもらった冷たい麦茶を飲んでいた。
「紫、崩月家のご感想は?」
「恐れるに足らんな。百聞《ひやくぶん》は一見《いっけん》にしかず、というやつだ。書物や人から聞いた話だけでは、真実はわからんものだ」
「そうか」
 真九郎が頭を撫でてやると、紫は珍《めずら》しく嫌がらない。大きな欠伸を漏らしているところからして、眠気に襲われ、それどころではないのだろう。彼女より幼い散鶴などは、既にウトウトし始めている。時計を見ると、普段なら寝ている時刻。夕乃が戻ってきたところで二人の着替えを任せ、真九郎は冥理に挨拶してから、帰ることにした。下着などを借りて着替えを済ませた紫を背負うと、それに合わせたように彼女はすぐ眠ってしまう。
「真九郎さん、これも」
 夕乃は、真九郎に紙袋を渡した。中身は数着の子供用パジャマ。
「わたしが昔、使っていたやつです。紫ちゃんにあげてください」
「ありがとう、夕乃さん」
「今度訪ねたときに彼女が裸《はだか》だったら、わたし、本気で怒りますからね?」
「……必ず着させます」
 真九郎の背中で眠る紫に視線を移し、夕乃はクスッと笑った。
「そうしていると、真九郎さん、お兄さんみたい」
「そうかな……」
 真九郎の内心は、少し複雑。
 姉や兄とは、頼れる存在だ。自分の何処にそんな要素があるのか。
 門の前でもう一度夕乃に礼を言ってから、真九郎は夜道を步き出した。子供特有の体温の高さを背中に感じつつ、まばらな街灯の明かりが示す道を、ゆっくりと進む。
 表御三家と裏十三家か……。
 真九郎には初耳のそれを、紫は知っているのだろう。この子はお喋《しゃぺ》りのようで、肝心《かんじん》なことは喋らない。自分が誰に、どうして狙《ねら》われているのかも。
 その分別《ふんべつ》は、必要に応じて身につけたものなのだろうか。
 この子は、どんな人生を步んできたのだろうか。
 表御三家の一つ、【九鳳院】の人間としての重圧を、この子は感じたりするのだろうか。
 それがどれほど過酷《かこく》なものであっても、この子は逃げたりしないような気がする。
 この小さな体で、受けて立つはずだ。
 身を切るように冷たい風が前方から吹きつけ、真九郎は背中の紫に風が当たらぬよう注意しながら步く。周囲の警戒も怠《おこた》らない。この辺は住宅地で、他にも通行人はいるが、万が一ということもある。
 いざとなれば逃げられるように準備。逃げるのは、何も悪いことではない。
 負けるか逃げるかしか選択肢がなければ、逃げるしかないのだ。
 その判断は間違いじゃない。真九郎はそうしてきた。これからもそうする。
 でも……。
 真九郎は首だけで後ろを振り返り、背中で静かな寝息を漏らす紫を見た。あらゆる呪縛《じゅばく》から解放されているような、幼い顔。それともこれは、幼くして全てを受け入れた者の顔か。
 真九郎は思う。
 逃げる自分は間違ってない。でも、もしも逃げない者がいたら、負けるとわかってその選択肢を選ぶ者がいたら、その者は間違っているのだろうか。
「……ん……」
 紫が何か寝言を眩き、真九郎の背中に柔らかい頬をこすりつけた。
 それを見ていると自然に、本当に自然に、真九郎の顔に笑みが浮かぶ。
 難しいことはあとでもいい。
 表御三家も裏十三家も紅香の思惑《おもわく》も関係なく、自分はこの子を守ろう。
 やたら生意気で、でも寝顔だけは天使のような、この子を。
 背中の温かさを心地良く感じながら、真九郎は五月雨荘へと急いだ。
 早く帰ろう。
 この子が、風邪を引いてしまわないように。
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