红(5)

来源:互联网 发布:打印一体机知乎 编辑:程序博客网 时间:2024/04/27 16:22

  第五章 九鳳院の闇


 午後の授業は、上《うわ》の空《そら》で過ぎていった。
 HRが終わり、担任が注意事項を告げて学級委員の号令で起立、礼、着席。教室から生徒たちが消えていくなかで、真九郎《しんくろう》は教科書とノートを鞄《かばん》に詰め、銀子《ぎんこ》からもらった封筒も鞄に詰めた。分厚か舐の束。指に伝わるその重さが、さっきよりも増しているよう紘気がする。もう一度情報の真偽を確認するため、銀子に声をかけようとしたが、彼女の姿は既に教室内にはなかった。また新聞部の部室だろうと思い、真九郎も教室を出るが、途中で進路を変え、下駄《げた》箱に向かうことにする。
 何度尋ねたところで、事実が変わるわけではない。それを信じるかどうかは、真九郎の方の問題だ。下駄箱で靴を履《は》き替えながら、真九郎は考える。
 九鳳院《くほういん》|紫《むらさき》という名は、家系図の何処《どこ》にも見当たらなかった。 紫が九鳳院家の人間でないことを、紅香《べにか》は知っているのだろうか?
 彼女のような超一流が、銀子の得たレベルの情報を知らないとは考えられない。ならば、紅香は全《すべ》てを承知《しょうち》の上か。
 紫の素性《すじょう》も、紅香の意図も、どちらもわからない。ただ、紫の素性に関しては、いくつかの可能性は思い浮かぶ。例《たと》えば、九鳳院|蓮丈《れんじょう》が妾《めかけ》に産ませた子供、という可能性。それなら家系図に載ってなくとも当然。九鳳院ほどの大|財閥《ざいばつ》の総帥《そうすい》なら、妾が何十人いてもおかしくはないし、銀子の情報で網羅《もうら》できない子供がいても不思議はない。それなら、紫が自分のことをあまり語らない事情も説明がつく。
 そういうことなのかな、と真九郎は納得しかけるが、引っ掛かりもあった。
 紫は、自分のことを「九鳳院紫」と名乗ったのだ。引け目など感じさせない、堂々たる態度で。それともあれは、演技だったのか。
 もやもやとした嫌な感覚が、真九郎の胸の奥から湧《わ》いてくる。自分は、紅香と紫に何か騙《だま》されているのではないか、という疑惑。全面的に信用していた気持ちが、僅《わず》かに揺らぐ。真実から遠ざけられるのは、いい気はしない。この件に何が隠されているのかはわからないが、真九郎が思っているほど単純な仕事ではないのか。
 校舎を出て校門を通り過ぎ、学生たちの流れに乗って駅へと進んでいた真九郎は、こちらに駆け寄ってくる小さな人影に気づいた。
「真九郎!」
「……紫」
 今の心境では、一番会いたくなかった人物。
 そんな事とは露《つゆ》知らず、紫は笑顔で真九郎を見上げ、
 「これを使え!」
 と、傘《かさ》を差し出した。
 そこで初めて、真九郎は空模様が怪《あや》しいことを知る。今の自分の気持ちのように、濁《にご》った空。まだ降りそうではないが、念のために傘は必要だろう。紫は、天気予報で夕方から雨が降ると知り、環《たまき》に頼んで、途中まで送ってもらったらしい。
 お節介《せっかい》な人だ……。
 前回の件で、真九郎は一応環に注意しておいたのだが、所詮《しょせん》は馬の耳に念仏《ねんぶつ》か。詳《くわ》しい事情を説明しないのでは、仕方がなくもある。それに、環の気持ちもわからないではないのだ。この九鳳院紫という少女は、何となく助けてやりたくなるような、そんな雰囲気《ふんいき》がある。弱いから助けたいのではなく、彼女の強い意思が実現するように、手助けしてやりたくなる。
 真九郎が無言で傘を受け取ると、紫はちょこんと首を傾《かし》げた。
「嬉《うれ》しいか?」
 護衛役としては、ここは紫を叱《しか》るべき。
 勝手に外出するな。狙《ねら》われてる自覚は無いのか。もっと警戒《けいかい》しろ。危機感を持て。
 おまえは誰なんだ?
 俺を騙してるのか?
 浮かんでくる無数の言葉。その中から真九郎が選んだのは。
「……ああ、助かったよ」
「うむ。真九郎が嬉しいなら、わたしも嬉しいぞ」
 それから、彼女は何かを期待するような眼差《まなざ》しで真九郎の顔をじっと見つめる。
 真九郎は、その意味を理解。
「弁当、美味《うま》かった」
「本当か?」
「ああ」
 やったー、とその場で飛び跳《ま》ねる紫を見ていると、真九郎は何だか笑いたくなってきた。
 バカらしい。悩んでいたのが、バカらしい。
 真実がどうだろうと、何も変わらないじゃないか。
 自分はこの子を守る。どこの誰がこようと、必ず守る。
 少し騒しい話だが、真九郎はこの小さな女の子のことを、気に入ってしまっているのだ。
 その気持ちに、素性など何の関係があるのか。
 そんな当たり前のことにようやく気づいた真九郎は、紫を連れて駅に向かう。
 彼女の步調に合わせて、ゆっくりと。

 

 駅前のスーパーで夕飯の買い物。
 何か食べたいものはあるか紫に尋ねると、真九郎が作るものなら何でもいいと言われる。買い物|籠《かご》を持ちたがるので紫に任せ、真九郎は食材を購入。紫の視線の動きからホットケーキに興味があるのを察し、その材料も購入。紫は買い物袋も持ちたがったが、これは重いので真九郎が持った。かわりに傘を紫に渡し、二人は並んで家路につく。
 空模様から見て、五月雨《さみだれ》荘に着くまでは保《も》ちそうだ。洗濯物は、紫が既に取り込んだという。偉《えら》い、と真九郎が誉《ほ》めると、紫は照《て》れたように笑った。
「そうだ。真九郎に訊《き》きたいことがあったのだ」
「何だ?」
「真九郎は、胸が大きい方が好きなのか?」
「……えっ?」
「環がそう言ってたぞ。闇絵《やみえ》や夕乃《ゆうの》や紅香のように、胸の大きい女に真九郎は優しいから、巨乳好きに違いないと」
 ろくなこと言わないな、あの人……。
 うんざりする真九郎の隣で、紫は自分の平らな胸を見て何やら難しい顔。
「お母様は胸が大きかったので、わたしもいつかは同じようになると思うのだが、まだまだ時間がかかるだろう。今のわたしでは、真九郎を満足させてやれないな」
「満足って……」
「詳しくは知らんが、男は女の胸をどうかして楽しむのだろ?」
「あー、それは……」
「そのためには胸が大きい方が良い、とも聞いた」
「んー、それは……」
 年長者として無難な答えは何か。
 真九郎が困っていると、紫は「悔しいな」と少し沈んだ声で言った。
「子供のわたしでは、おまえに、たいしたことはしてやれない。たいしたことも言えない。だから、わたしは今、自分が子供でいることが悔しい」
 拳《こぶし》をグッと握り、紫は続ける。
「わたしはな、おまえに伝えたいことがあるのだ。わたしの中にあるこの気持ちを、全部伝えてみたい。でも、どうすれば伝わるのか、わからない。どう言えばいいのか、わからない。今のわたしには、わからない。それが悔しい。きっと、大人になればわかるのだろうな……」
 紫は一度視線を落としたが、やがて顔を上げて言った。
「だが、わたしはくじけないそ。今のわたしにできることを、しようと思う」
 彼女はその小さな手を、真九郎に向けて伸ばす。
「真九郎、手を繋《つな》ごう」
 何てまっすぐな瞳《ひとみ》。まっすぐな意思。まっすぐな言葉。
 真九郎が狼狽してしまうほどに、それは力強く、純粋なもの。
 気がつくと、真九郎は彼女の手を握っていた。悩める者が、真理を求めるように。罪人が、救いを求めるように。卑小な虫が、光を求めるように。
 小さくて、羅で、柔らかい手だ。その細い指に力を込め、彼女はしっかりと真九郎の手を握る。ただ手を繋いでいるだけなのに、彼女はとても幸せそうに笑う。見ているこちらまで、つられて笑ってしまうような笑顔。
 真九郎は嬉しくなった。何故《なぜ》だろう、と理由を探す気も起きないほど自然に、そう思った。紫は真九郎を温かいと言ったが、それは違う。本当に温かいのは、彼女の方だ。それも違う、と心の中で誰かが言った。温かいのは、きっと二人が手を繋いだから。
「今日は銭湯《せんとう》のあとで、銀子のとこに行ってみるか」
「銀子?」
「俺の幼《おさな》なじみで、家がラーメン屋をやってるんだ。知ってるか、ラーメン?」
「見たことはある」
「美味いぞ。おまえも、きっと気に入る」
「真九郎と一緒なら、何を食べても美味い」
「ピーマンもか?」
「………努力はしているのだ」
 口を尖《とが》らせ、少しすねる紫を見て、真九郎は久しぶりに本気で笑ってしまった。
 二人の吐く息は白く、そろそろ炬燵《こたつ》を買うか、と真九郎は思い、炬燵の中で猫のように身を丸める紫を想像して、また笑ってしまった。
 そして終わりがやってきた。
 五月雨荘の前に、黒塗りの車が一台停《と》まっていた。一目で外国製の高級車とわかるそれに、真九郎は首を傾げる。五月雨荘の住人の車、ではない。住人で運転免許を持っているのは1号室の鋼森《こうもり》だけであるし、彼の車はフォルクスワーゲンのビートルなのだ。五月雨荘にこんな高級車で乗りつけるとは、何処の誰か。
 真九郎は、そこで思考を止める。
 繋いだ紫の手が、微《かす》かに震えていたのだ。その視線は車に釘付《くぎづ》けで、表情は強張《こわば》っている。
 ……どうしたんだ?
 真九郎が声をかけようとしたところで、黒塗りの車のドアが開き、誰かが降りた。
 力仕事の経験が一度もないような、細い手足。そして俳優でも通じる、甘いマスク。
 真九郎とそれほど歳《とし》は離れてないであろう、少年だ。
 少年は紫に目を向けると、
「ああ、こんなところにいたのか、紫」
 と顔に似た甘い声を発し、大きく手を広げながら、二人に步み寄ってきた。彼が近づくにつれて、紫の震えは次第《しだい》に大きくなる。繋いだ手から伝わるのは、彼女の怯《おび》える気配。
 真九郎は、護衛役としての行動を起こす。
「あんた誰だ?」
 立ち塞《ふさ》がった真九郎に、少年はにこやかに返答。
「九鳳院|竜士《りゅうじ》」
「……九鳳院、竜士?」
「そこにいる紫の、実の兄だよ」
「紫の……?」
 二人から見つめられた紫は、彼女らしくない、おどおどした様子で下を向いていた。
「紫えさんの言ってることは本当だよな?」
 竜士の笑顔の問いかけに、紫は下を向いたまま頷《うなず》く。
「……はい、竜士兄様」
 これはどういうことか?
 真九郎は考える。
 九鳳院竜士。その名前は、銀子からもらった資料にも載っていた。
 九鳳院家の次男で、真九郎と同じ十六歳。
 写真まではなかったが、こいつが本人?
 そして、この二人が兄妹?
 銀子の情報が、間違っていたのか?
 その可能性はゼロではないが、でも……。
 混乱する真九郎に、竜士が言った。
「ところで、そっちこそ誰なのかな?」
「俺は、紅《くれない》真九郎」
「……記憶にない名前だね。まあいいや。紫、さあ帰るよ」
「待ってくれ! 俺は、この子の護衛を任されている者だ。あんたが本当にこの子の兄貴でも、そう簡単には……」
「偉そうに言うなよ、誘拐犯《ゆうかいはん》のくせに」
「……誘拐犯?」
 竜士からの説明を聞き、真九郎は言葉を失った。
 紫は、何者かによって九鳳院家から誘拐されたというのだ。マスコミは沈黙しているが、誘拐事件が報道規制を受けるのはよくあること。九鳳院家の重大事とあって警察も既に極秘《ごくひ》で動いており、竜士も紫をずっと捜し回っていたらしい。
 紫は、誘拐されて、五月雨荘に連れて来られた?
 それが本当なら、誘拐犯は紅香ということになる。
 紅香は真九郎を騙し、犯罪に加担《かたん》させていたのか……?
 いや、あり得ない。柔沢《じゅうざわ》紅香が誘拐のような卑劣《ひれつ》な犯罪に手を染めるなど、絶対にあり得ない。そもそも、紫は自分の荷物を持参してきたのだ。それは誘拐された者の姿だろうか。
 さらに混乱を深める真九郎を訝《いぶか》しげに見ながら、竜士は言う。
「こんな大それたことをするくらいだから、かなり名の知れた人間が関わってると思ってたんだけど、君は完全な無名だね。誰の指図《さしず》で動いてるの?」
「誰って、それは……」
「君のボスは、どこの誰?」
 紅香の名を出していいものか迷う真九郎を見て、紫は動いた。
 顔に緊張と怯えの色を浮かべながらもえの前へと進み出る。
「竜士兄様、違います」
「ん、何が?」
「わたしは、誘拐されたわけではないのです」
「誘拐じゃない……?」
 竜士はげんなりした様子で、ため息を吐《つ》く。
「……紫、どういうことなんだ?」
「わたしは、自分の意思で、あそこから出てきたのです。そのために力を貸してくれた者もいますが、全ては、わたしの責任です」
「じゃあ、おまえ、誰かに無理やり連れ出されたわけじゃないのか?」
「はい」
「おまえが望んだことなのか?」
「はい」
 ハッキリ頷く妹を見て、兄は再びため息を吐く。
「なんだ、そういうことだったか……」
「……あ、あの、竜士兄様、お願いが、あります」
 紫は、真九郎の方をちらりと見てから呼吸を整えると、竜士に言った。
「この者は、今回の件とは無関係です。何も知りません。だから、どうか、お咎《とが》めは……」
「紫、おまえは誰のものだ?」
 妹の言葉を遮《さえぎ》り、兄は問う。
「答えなさい、紫。おまえは誰のものだ?」
「わ、わたしは……」
「九鳳院紫。おまえは、いったい誰のものだ?」
 うろたえる紫に、竜士が繰り返して問うと、彼女の顔から火が消えるように表情が失《う》せた。
 真九郎が初めて見る、子供らしさの欠片《かけら》もない、能面《のうめん》のような表情。
 抑揚《よくよう》のない声で、紫は兄に言う。
「わたしは、九鳳院家の男性のものです」
「おまえは何のために生かされてる?」
「九鳳院家のためです」
「おまえの喜びは?」
「九鳳院家の男性に御奉仕することです」
「おまえに自由は?」
「必要ありません」
 教え込まれた芸をする動物のように、紫はスラスラと答えた。
「そうそう、ちゃんとわかってるじゃないか」
 にこやかに笑いながら、竜士は妹の頭を撫《な》でる。
 それは、お気に入りのペットを可愛《かわい》がる飼い主の手つき。
「おまえが大事なことを忘れてなくて、兄さん安心したよ。でもな、紫」
 竜士は、おもむろに右手で拳を握る。
「ちゃんとわかってるなら、じゃあ………何でこんなふざけたことしてんだよてめえ!」
 衝撃音が聞こえた。それは、竜士の拳が紫の顔に当たった音。小さな体が近くの民家の壁まで飛んでぶつかり、その手から真九郎の傘が転がり落ちる。
 ……えっ?
 今の光景に、真九郎は自分の目を疑った。
 ……紫を、殴った、のか?
 こいつ紫を殴ったのか?
「……に、兄様、お願いします」
 痛む顔を手で押さえながら立ち、紫は懇願《こんがん》する。
 指の隙間《すきま》からは鼻血がポタポタと垂《た》れていたが、彼女はそれに構わない。
「そ、その者は、何も知らないし、本当に、関係ないのです。だから……」
「うるせーよ」
 竜士は無表情で紫に近寄ると、その小さな体を思いきり蹴飛《けと》ばした。つま先が腹に突き刺々り、紫は「ごふっ」と胃の中身を吐き出す。
「舐《な》めやがって」
 蹴られた腹を両手で抱え、苦しむ妹の姿を、兄は何の感慨《かんがい》も込めずに見下ろした。
「おまえさあ、俺がどんだけ迷惑してると思ってんの?親父《おやじ》もお袋も兄貴も海外に行ってる間に、おまえにこんな問題起こされたら、俺の管理能力を疑われちまうだろ?」
 なんだこいつは……。
 真九郎が正常な思考に復帰するまで、数秒を要した。
 こいつ、紫を、妹を、兄のくせに、殴って、蹴った。
 何なんだこのクズ野郎は。
 買い物袋を放り捨て、込み上げる怒りを暴力に変換しようとした真九郎の肩を、後ろから誰かが掴《つか》んだ。振り返ったそこにいたのは場違いな男。アロハシャツを着た、大柄で筋肉質の黒人。掴まれた肩に食い込む指と、アロハシャツから伸びた腕が、黒光りする鋼鉄だと真九郎が気づいた瞬間、黒人は真っ白い歯を剥《む》き出しにして笑う。
「HEY!」
 次に真九郎が見たのは、鋼鉄の拳。鉄塊《てっかい》と呼ぶに相応《ふさわ》しいそれが、真九郎の知覚を超える速度で頭に叩《たた》き込まれた。脳みそが派手《はで》に揺れ、神経がパニックを起こし、意識が途絶《とだ》える。近くの電信柱に激突し、地面に顔を打ちつけたところで、真九郎は意識を取り戻した。
「………がっ…く…ぐぅ…」
 視界がグルグルと回る。頭が割れそうに痛む。吐き気がする。
 油断した。敵に、こんな接近を許すなんて。
 戦闘用の義手。それを使いこなす筋力。
 この黒人は戦闘屋だ。人間を壊すプロ。
「すげえ、まだ生きてる!」
 ゲラゲラと笑いながら、黒人は鋼《はがね》の指で真九郎の首を掴み、宙|吊《づ》りにする。万力《まんりき》で絞《し》められるような圧力と痛みに、真九郎は声も出ない。
「坊ちゃん、この小僧《こぞう》はどうします?」
「ちょっと黙ってろ」
 竜士は紫の髪を引っ張り、無理やり立ち上がらせた。止まらない鼻血と蹴られた腹部の痛みで朦朧《もうろう》とする紫に、竜士は顔を近づける。
「血が繋がっててもな、おまえと俺じゃ、立場が違うんだよ! そこんとこわかってんのか、クソガキ!」
 紫は苦しげに蜷をするだけで、答えない。答えたくとも、呼吸さえまともにできないようだった。それでも、これ以上兄の怒りを買う危険だけは避けたかったのか、紫は切れ切れながらも言葉を発する。「ご、ごめん…な……さい……」
「聞こえねーよ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「おまえ、俺を困らせようと、わざとやってんのか、おい!」
「ち、違います……」
「クソガキ!」
 竜士は、再び彼女の腹を蹴りつける。髪を掴まれた紫の体がその衝撃で揺れ、口から吐きだされたものが地面に飛び散った。竜士が髪から手を放すと、紫は力を失ったように倒れる。
 真九郎は、それを見ていた。竜士を八《や》つ裂《ざ》きにしてやりたかった。だが、その意思が肉体に伝わらない。目眩《めまい》と吐き気も収まらず、全身の神経がほぼ麻痺《まひ》状態。アロハシャツの黒人は、まさにプロの戦闘屋だ。遊びがない。最初の一撃で、真九郎の戦闘力を奪ったのだ。宙吊りのまま視線だけを動かし、真九郎は紫と竜士を見続ける。
 竜士は咳込む紫を後ろから抱きしめ、下卑《げび》た笑みを浮かべていた。
「あの小僧は何だ? おまえ、その歳でもう男をたらしこんだのか? つーかさ、おまえこの服は何よ?女らしい服を着ろって言ったろ? たくさん買ってやったろ?」
 竜士に胸を鷲掴《わしづか》みにされ、紫の顔が苦痛に歪《ゆが》む。
「い、痛いです……」
「おお、まだ育ってないみたいだな。いい感触」
「や、やめて、ください……」
「おまえ、痛いとか、やめてとか、ネガティブなことしか言えねえの? 愛《いと》しの兄様が触ってやってるんだ。気持ちいいとか、ありがとうとか、たまにはそういうポジティブなこと言ってみろよ!」
 竜士は紫の顎《あご》を掴んで自分へと向かせ、その唇《くちびる》を奪おうとしたが、彼女は必死に顔を背《そむ》ける。それが気に障《さわ》ったのか、竜士は紫から手を放し、また腹を蹴った。
 うずくまって苦しむ彼女を無視して、アロハシャツの黒人に命令。
「【鉄腕】、そいつ殺せ」
「へーい」
 アロハシャツの黒人、【鉄腕】が笑顔でそれを実行しようとするのを見て、紫は竜士の足にすがりついた。
「……お、お待ちください!」
「何だ、我が妹よ?」
 紫はその場に手をつき、深く頭を下げる。
「竜士兄様。どうかお願いします。真九郎だけは、真九郎だけは、助けてください」
 土下座をする妹を、兄は冷たく見据《みす》えた。
「おまえに協力したの、誰よ?」
「柔沢紅香です」
「柔沢って………あのバカ強い女か。厄介《やっかい》だな。ま、それはあとで近衛《このえ》隊に任せりゃいい」
 竜士は唾《つば》を吐き捨て、続けた。
「紫、おまえ、もう俺に逆らわないか?」
「逆らいません」
「何でも言うこと聞くか?」
「はい」
「おまえ、俺の子を産むよな?兄貴でも他の男でもなく、俺の子を?」
 紫は、数秒間の沈黙の後、頭を下げたまま答える。
「……産みます」
「何人でも産むよな?」
「……何人でも、産みます」
「いいね、その素直な態度」
 妹が自分に屈服する姿に満足したのか、竜士は彼女の願いを承諾《しょうだく》。
「そいつは見逃してやるよ。どうせ下《した》っ端《ぱ》じゃ、たいした情報は持ってないだろうし」「本当ですか?」
 その真偽を確かめるように、紫は兄に目を向ける。
「俺の言葉がウソかどうか、おまえならわかるだろ?」
 視線を外さない紫に苦笑しながら、竜士は命令。
「【鉄腕】、そいつを放してやれ」
「いいんですかい?」
「早くしろ」
 鋼鉄の指から解放され、真九郎は地面に崩《くず》れ落ちる。
 立て、動け、戦え。どれだけ念じようと、真九郎の体は応《こた》えなかった。
「ほら、これでいいだろ? 兄さんはウソをつかない。おまえも、誓《ちか》いを忘れるな」
 紫は倒れた真九郎を見つめ、唇を噛《か》み、グッと拳を握り、兄に頷く。
「……はい、竜士兄様」
「乗れ」
 開かれる車のドア。
 紫、行くな。そっちに行くな。
 真九郎は口を開いたが、声は出ず、体も動かない。これではまるで、あのときと同じだ。何もできずに家族を失った、あのときと同じ。また俺は、失ってしまうのか。
 紫は車に乗る前に立ち止まり、鼻血を手の甲《こう》で拭《ぬぐ》ってから、真九郎の方に向いた。「ごめんな、真九郎。わたしのせいで、こんな……」
 違う。おまえのせいじゃない。俺が弱いだけだ。
 真九郎はそう伝えたかった。でも、声が出せない。
 紫は、涙を堪《こら》えるように鼻水をすすり上げ、そして微かな笑みを、今できる精一杯の笑みを、その顔に浮かべた。
「いろいろとありがとう。楽しかったぞ。本当に、楽しかった……ぞ…」
 震える声でそう言い、紫は車の中に消えた。そのドアを閉め、別のドアから車へと乗る前に、竜士は【鉄腕】に命令。
「そいつ殺すなよ。約束だからな」
「じゃあ、どうするんです?」
「命以外の全てを奪え」
「へーい」
 竜士が乗り、車は動き出す。
 さっそく命令を実行しようとした【鉄腕】は、真九郎を見てヒューと口笛を吹いた。
「たいしたもんだ。小僧、どんな鍛《きた》え方した?」
 壁に手をつきながらも、真九郎は何とか立ち上がっていた。
 まだ足腰に力が入らない。まともに步くことすらできそうにない。
 だったら、這《は》ってでも追いかけてやる。追いかけてやる。
「俺は、日本の相撲《すもう》ってやつが好きでな」
 真九郎の行く手を、鋼鉄の腕を持つ巨体が遮る。
 【鉄腕】は両手の拳を地面に付き、膝《ひざ》を曲げた。
 膨《ふく》れ上がる筋肉。血に飢《う》えた猛牛と相対《あいたい》するような圧力に、真九郎の背筋《せすじ》が凍《こお》りつく。
「はっけよーい、のこった!」
 真九郎は体に防御《ぽうぎょ》を命じたが、反応無し。【鉄腕】の体当たりをまともに喰《く》らった。自動車にでも激突されたような衝撃。肋骨《ろっこつ》が砕《くだ》ける嫌な音が体内に響き、真九郎は軽々と吹っ飛ばされた。地面を数回バウンドしながら五月雨荘の門柱にぶつかり、共同玄関前まで転がる。
「かはっ、げほっ……」
 あまりの痛みに全身が痙攣《けいれん》し、このままでは危険だと本能は警報を発していたが、真九郎は無視した。今はそれどころじゃない。紫が連れて行かれた。事情は知らない。でも、こんなこと納得できるか。待ってろ。あのクズ野郎、ぶっ飛ばしてやる。
 神経が引き千切《ちぎ》れそうな痛みに悶《もだ》えながら、真九郎は地面に両手をつき、体を起こそうとする。追いかけるんだ。戦うんだ。紫を、助ける……。
 真九郎は愕然《がくぜん》とした。
 力を入れようとした両足が、震えていた。ブルブルと震えていた。
 立ち上がることを拒《こば》むように、震えていた。
 おい、ウソだろ、こんな……。
 紫を助けるために、戦いたいのに、心の底では怖気《おじけ》づいているのか。
 紅真九郎は、ここまで情けない男だったのか。
 真九郎の目に涙が滲《にじ》み、その歪んだ視界に、こちらに向かってくる【鉄腕】の姿が映る。
「さーて、どう壊してやるかな。手足は潰《つぶ》すとして……」
「うわ、痛そう」
 いつもの呑気《のんき》な声が、真九郎の背後から聞こえた。
 武藤《むとう》環は真九郎の肩に手を置き、静かに地面へと寝かせる。何か言おうとする真九郎の口に指を押し当て、環は【鉄腕】へと顔を向けた。
「そこの義手の人。仕事なのはわかるけど、このへんで勘弁《かんべん》してくれません? この子、あたしの弟分みたいなもんでして。こういうのは、さすがに見過ごせないんですよ」
「聞けんな」
「いや、そこを何とか」
「邪魔するなら、貴様ごと潰してやろう」
 鋼鉄の義手で拳を握り、接近してくる【鉄腕】。
「参ったなあ……」
 言葉とは裏腹《うらはら》に、環の口元に浮かんだのは楽しげな笑み。
 寝癖《ねぐせ》の残る頭を掻《か》き、「しゃあないか」と環が拳を構えようとしたとき、その前に一匹の黒猫が割って入る。
 闇絵の飼い猫、ダビデだ。
「やめておきたまえ」
 門の側に生える大木の枝に、黒ずくめの魔女が腰かけていた。ゆったりと紫煙《しえん》を漂わせながら、普段通りのマイペースな口調で闇絵は言う。
「環、君らしくないな」
「いやー、やっぱお隣さんですから。いつもお世話になってるし」
「協定違反はまずかろう」
 闇絵は、【鉄腕】に宣告。
「そこの男コここは五月雨荘。不戦の約定《やくじょう》が結ばれた土地だ。争いを望む者は、去れ」「……不戦の約定か。そうだったな」
 【鉄腕】は大袈裟《おおげさ》に肩をすくめ、妥協《だきょう》案を口にする。
「ルールでは仕方ない。その小僧を壊すのは、敷地の外に引きずり出してからにしよう」
「できっこないよ」
 顔の前で手を振り、環は断言。
「だって、二対一だもん」
 二対一。木の上では闇絵。真九郎の側では環。【鉄腕】はしばらく二人を睨《にら》んでいたが、その力をどう読んだのか、真九郎が一向に動く気配がないのを確認してから踵《きびす》を返す。
 真九郎は、環たちのやり取りをぼんやりと聞きつつ、顔に水滴が当たるのを感じた。
 濁りきった空。降り始めた雨。
 全身に雨を浴びながら、真九郎は思う。
 ごめんな、ごめんな、紫。
 俺は、おまえが思ってくれるほど、強くなんてないんだよ……。
 消えそうになる意識の中で、真九郎は紫に謝った。

 

 それからの数時間は、真九郎にとってただ虚《うつ》ろに過ぎて行った。
 環に担《かつ》がれて部屋に運ばれ、電話で呼ばれた山浦《やまうら》と南《みなみ》が来て治療され、山浦から安静にしてるよう注意を受け、南が見舞いの品として桃の缶詰《かんづめ》を枕元に置き、闇絵が一度だけ真九郎の顔を覗《のぞ》き込んで何かを言い、そして部屋は静かになった。
 裸《はだか》電球の明かりが眩《まぶ》しかったが、目を閉じる気はない。今閉じれぽ、おそらくはずっと眠ってしまうだろう。意識が遮断《しゃだん》されるのは嫌だ。数時間前のあの記憶を、少したりとも薄れさせるわけにはいかない。手足に力を入れてみる。激痛。しかし、動かせないほどではない。山浦に言われた注意はあまり覚えていないが、生命|維持《いじ》に必要な器官は無事らしい。崩月《ほうづき》家のお陰《かげ》だ。とにかく頑丈《がんじょう》に鍛え上げられた肉体は、命だけは守った。真九郎の命だけは。
 痛みを堪えて首を動かすと、部屋の隅《すみ》に環が座っていた。スルメイカを口に銜《くわ》え、缶ビールを飲みながら、自室から持ってきたマンガを読んでいる。積み上げられた冊数からして、ずっと付き添っていてくれたらしい。
 何気《なにげ》に優しい人だよな、と心の中で感謝しながら真九郎は言った。
「……環さん」
「おっ、水でも飲む? 桃缶開けよっか?」
「……電話、取ってください」
 環から携帯電話を渡され、真九郎はボタンを操作しようとしたが、焦《あせ》りと痛みで指が上手《うま》く動かなかった。何度も何度も押し間違え、しまいには手から落としてしまう。
 それを拾い上げ、環が言う。
「どこにかけるの?」
「……銀子の、ところです」
「銀子ちゃん?」
「……あいつに、調べてもらわないと」
「何を?」
 ……何を?
 まず何から調べればいいのか?
 わからないことが多すぎる。痛みで、思考がまとまらない。さっきのは何だったのか。どうしてあんなことになったのか。紫は、本当に九鳳院家の娘なのか。どうしてあんな理不尽《りふじん》な扱《あつか》いをされているのか。九鳳院家とは何なのか。
 俺は、これからどうするべきなのか。
 コンコン、と外からドアをノックする音。それに続いてドアが開き、彼女が立っていた。
「生きてるか?」
 いつものようにトレンチコートを肩に羽織《はお》り、いつものように口にタバコを街え、いつものように不敵な笑みを浮かべて、柔沢紅香は部屋の入り口から真九郎を見下ろす。
「……紅香さん」
「大丈夫そうだな。おお、環も一緒か」
  どーも、と軽く頭を下げる環に片手を振ってから、紅香は言った。
「一足遅かったらしい。ここを突き止められるとはね。迷惑かけたな、真九郎。しばらく養生《ようじょう》しろ。依頼料には色をつけとく」
 それだけ言って、紅香は背を向けた。
 真九郎は布団《ふとん》から飛び起き、閉じようとするドアまで走る。
「待ってください!」
 足が床を踏むだけで激痛が生じたが、それを捻《ね》じ伏せて紅香に詰め寄った。
「せ、説明してください! 何がどうなって、どうして、あんな……」
「おまえは知らなくていい」
 紅香はゆったりと紫煙を吐く。いつものように。
「ふざけるな!」
 紅香の胸倉を掴んだと思った瞬間、真九郎は廊下に倒されていた。右腕は折れる寸前まで捻《ひね》られ、背中の上には犬塚《いぬづか》|弥生《やよい》が乗っている。彼女はまったくの無表情で、真九郎の首に手裏剣《しゅりけん》の刃を押し当てた。
「いいよ、弥生。放してやれ」
 紅香に言われ、弥生は静かに真九郎を解放。そして紅香の背後に控《ひか》える。
 しょうがないなあ、とぼやきながら環が肩を貸し、真九郎を立ち上がらせた。そのまま布団に戻そうとする環に逆らい、真九郎は紅香を睨みつける。
「……説明、してください。どういうことなのか、全部教えてください」
「聞いてどうする?」
「それは……」
「おまえ、立ち向かえるのか?」
 真九郎は答えられなかった。
 心の底にいつまでも居座る弱虫が、それを邪魔する。
「その傷、プロの戦闘屋にやられたな? この件に深く関われば、そんなもんじゃ済まんぞ。確実に殺される」
 そんなもの怖くない。
 ……本当にそうか?
 あのとき紫を助けられなかったのは、不意討《ふいう》ちを喰らったことだけが原因じゃない。初めてプロの戦闘屋と対峙《たいじ》した真九郎は、怖気づいたのだ。
 戦うべきときに、真九郷は戦えなかった。何もできなかった。
 紫は、あんなに必死に庇《かば》ってくれたのに。
「……あいつ、俺を、助けてくれたんです。俺を、守ってくれたんです。守るのは、俺の役目なのに、それを、あいつ……」
 紫を守れなかった悔しさ、己《おのれ》の情けなさに、目にまた涙が滲んできそうだったが、真九郎は歯を食いしばって堪えた。
「紅香さん、教えてください、どういうことなのか……」
「知ったところで、どうにもならんぞ?」
 そうかもしれない。
 あそこで動けなかった自分に、何ができるというのか。
 でもそれは。
「……それは、あなたが決めることじゃない」
 真九郎が退《ひ》かないとわかり、紅香は部屋の入り口を顎でしゃくった。環に助けられながら、真九郎は布団の上に戻る。ただし、横にはならない。体はそれを求めているが、心がそれを拒否している。
 自然と部屋のドアが閉まったのは、おそらく弥生の仕業《しわざ》。彼女の姿は見えないが、何処かに控えているのだろう。紅香は床に腰を下ろし、あぐらをかく。席を外しましょうか、と環は言ったが、紅香は彼女の同席を認めた。真九郎としても、ありがたい。紅香に疑念がある今は、環の存在が心強かった。
 タバコを指に挟《はさ》み、紅香は真九郎と視線を合わせる。
「何から知りたい?」
「あなたの目的」
「直球だな。悪くない」
 環が部屋の灰皿を渡すと、その上にタバコの灰を落としながら、紅香は言った。
「わたしの目的は、約束を果たすことだ」
「約束?」
「古い約束でね……」
 そういえば、と真九郎は記憶を探る。
 紫を連れてきた日にも、紅香はそんなことを言っていた。
 そのときと同じく、紅香の顔からは珍《めずら》しく憂《うれ》いのようなものが見て取れる。
「誰との約束なんですか?」
「紫の母親だ」
「あいつの、母親……?」
 大きく紫煙を吐き、これは重要機密だ、と前置きしてから紅香は語り出した。
「九鳳院家の人間は、同族同士でしか子供を作れない」
 それは遺伝的な特徴であり欠陥《けっかん》。
 九鳳院家は、過去から現在まで、ずっと近親|相姦《そうかん》で続いてきた家系。
「昔なら、まあ一族内の近親相姦なんて、別に珍しいことでもなかったわけだがな」
「でも、今の社会でそんなことを……」
「やるさ。そうしなければ、一族が存続できない」
 九鳳院家の者は、九鳳院家の者としか子供を作れない。一族を存続させるためには、近親相姦を続けるしかない。しかし、世間《せけん》に非難されるのは必至《ひっし》。そこで考え出されたのが、奥ノ院《おくのいん》と呼ばれる施設。九鳳院家で産まれた女子は全て、そこで生活させることにした。世間から臨離《かくり》された空間。政府もマスコミの目も届かない禁忌《きんき》の地。大財閥だからこそ可能だったこと。あらゆる手段を尽くし、九鳳院家は奥ノ院という聖地を完成させた。
 産まれた女子は世間から隠され、存在しないものとされ、奥ノ院で一生を過ごす。不自然に思われぬよう、たまに女子の誕生を報道させることもあるが、すぐに病死扱いとし、奥ノ院へ。仮に不審《ふしん》を嗅《か》ぎつけた者がいても、全ては極秘|裏《り》に処理。近衛隊が消す。
「ムチャクチャだ、そんなの……」
 真九郎は呻《うめ》くようにそう言ったが、紅香は話を続けた。
 九鳳院家の男は、やがて正妻を迎える。ただし、普通の女とはどれだけ交わろうと子供は産まれないので、子供は奥ノ院で得る。奥ノ院で女と交わり、子供を産ませる。産まれたのが女なら、奥ノ院で永住。産まれたのが男なら、それを世間的には正妻の子として育てるのだ。それが、九鳳院家の作り出したシステム。一族を存続させるための知恵。
 当惑《とうわく》するしかない真九郎に、紅香は苦笑しながら言う。
「理解しがたいだろ? わたしもな、初めて聞き、初めて見たときはそうだった。そんなシステムに従う女たちの気持ちが、さっぱりわからなくてな。でも、なんていうか、あそこは一種の異界みたいなもんでね。こちらの常識は通用しなかったよ……」
 紅香が言うには、奥ノ院で暮らす女たちは誰一人として疑問を持たないらしい。一族のために子供を産むことだけが自分たちの存在意義であり、それ以外の望みを持たないのだ。正妻への嫉妬《しっと》も、産まれた男子を取り上げられる悲しみも、世間への憧《あこが》れもない。それは、そういうふうに教育されるからだ。奥ノ院は、女たちにそう教育する。必要なら薬を使い、それでもダメなら脳にメスを入れてでも、必ずそうする。奥ノ院というシステムに順応するように、女たちを改変する。だから奥ノ院には、俗《ぞく》世間のような争いも犯罪もない。ただひたすらに穏《おだ》やかに過ごし、子供を産み、やがて死ぬ場所。
「……紫も、そこで?」
「あの子は、九鳳院蓮丈が実の妹に産ませた子供だ。奥ノ院でも最年少の女。産まれも育ちも奥ノ院。これから死ぬまで奥ノ院で過ごす」
 奥ノ院では外界の情報をある程度は得ることができるし、厳重な護衛付きなら、街で買い物を許されることもある。そんなことでは崩れないほど、強固に思想を制御《せいぎょ》されているからだ。学問などの教育は特にしない。女は必要以上に賢《かしこ》くなくともよい、という九鳳院家の方針。だから奥ノ院では、自分の名前も書けないような文盲《もんもう》の女も珍しくない。そんな中で、紫はテレビや書物をもとに独力で学問を学んでいたらしい。
「九鳳院の女は短命だ。近親相姦を続けた弊害《へいがい》だろうが、子を産むとたいてい早死にする。多くても、二人も産めば死ぬ」
 現当主、九鳳院蓮丈には三人の妹がいたが、既に全員が死亡。
 三人は子供を一人ずつ産んでいた。長男次男、そして長女。
「九鳳院家ってのは、完全な男尊女卑《だんそんじょひ》でな。九鳳院に産まれた女は、九鳳院に産まれた男に奉仕するのが当然、ということになってる。女は、決して男に逆らわない。父親が同じでも、一般的な兄妹とは違う。兄は、妹を子供を産ませるための女としか見ない。妹も、兄を自分が奉仕すべき男としか見ない」
 真九郎は、痛むのも構わず拳を強く握った。
 女を、子供を産ませる「道具」として扱う一族。そのための施設。
 全ては真九郎の常識外。
 嫌悪感さえ覚えるそんなものが、現実にあるというのか。
「ムカつくか? でも、そのムカつく場所に、奥ノ院に、わたしの友人がいた」
 奥ノ院で生きる一人の少女と、紅香は仲が良かったらしい。その少女は紅香とは正反対の性格だったが、何故か馬が合い、暇《ひま》さえあればよく話し合っていた。少女は外の世界の話を紅香から聞くのが楽しみで、紅香は少女の純朴《じゅんぼく》な反応が楽しかった。花に水をやっていても、空を見上げていても、ただ散步しているだけでも幸せそうに微笑《ほほえ》む、そんな少女だった。紅香は、少女が一生を奥ノ院で終えることを不欄《ふびん》に思った。そして、少女のもとを離れることになった際に言った。ここから出たいなら出してやる、と。少女は、首を縦《たて》には振らなかった。自分の生涯《しょうがい》を一族に捧げることを、少女はもう納得していたのだ。それでも食い下がる紅香に、少女は一つのお願いをした。いつか自分は子供を産む。それが男の子か女の子かはわからないけれど、もし女の子が産まれたら、その子の願いを一つだけ叶《かな》えてやって欲しい。紅香は少女と約束した。必ず叶えると。もしかしたら少女は、いつか産まれる我が子を哀《あわ》れに思っていたのかもしれない。自分はこの地で終わることに不満はないが、産まれてくる子はそうではないかもしれないと。そして、そのときに自分はその子の側にいられないかもしれないと。やがて年月が経《た》ち、少女は紫という名の女の子を産み、その子が三歳のときに死んだ。
 奥ノ院の内部情報を得るのは容易ではなく、紅香がそのことを知ったのはつい最近になってから。紅香は、約束を果たすことにした。奥ノ院に潜入し、少女が産んだ子供、紫と会った。紫は賢かった。紅香の言葉が真実だと、すぐに理解した。
 おまえの願いを一つ、叶えてやる。何がいい?
 紅香は、紫にそう尋ねた。
 紅香はどんなことでも叶えてやるつもりだった。もし奥ノ院から逃げ出したいなら、そのための手助けをしてやろうと思っていた。しかし、紫の願いはまるで違うもの。
 それは、さすがの柔沢紅香でさえ面食《めんく》らうような願い。
 九鳳院紫はこう言ったのだ。
『わたしは、恋というのをしてみたい』
 それが彼女の願い。
 彼女の望み。
 奥ノ院の女たちは、恋を知らずに男に抱かれ、子供を産み、若くして死ぬ。恋という言葉は知っていても、それは未知の感情。自分たちとは無縁《むえん》のもの。
 だから九鳳院紫は、恋をしてみたかった。
 普通の少女のように、誰かと恋をしてみたかった。
「……それで、俺のところに?」
「まあ、勝手な判断で悪いとは思ったが、他に適当な相手がいなくてな。紫のやつには、紅真九郎という男と一緒にいれば、もしかしたら恋が……」
 紅香の言葉は、途中から真九郎の耳に聞こえなくなっていた。
 火がついたのだ。
 どこかはわからない。でも、心のどこかに火がついた。
 真九郎は、拳を握っていた手を開く。もう一度握る。
 痛みがどうでもよくなった。大事なことがわかったから、他はどうでもよくなった。
 紫に会おう。
 もう一度、会おう。
 真九郎はそう決めた。
 いきなり立ち上がった真九郎の姿を、紅香と環が怪訝《けげん》そうに見る。
「おい、どうする気だ?」
「行きます、あいつのところに」
「状況わかってるか? 九鳳院家は、おまえ一人でどうにかなる相手じゃ……」
「紅香さん」
 真九郎は壁にかけていたハンガーから上着を外し、腕を通した。
 そして、正面から紅香を見つめる。
「ここは悩むところでも、迷うところでもありません。進むところです」
「死ぬ気か?」
「その前に、あいつに会います」
「仮に会えても、あの子は向こう側に留まるかもしれんぞ?」
「それは、あいつが決めることです。だから、あいつにもう一度会って、それから訊きます、どうしたいのか」
「助けを求めたら?」
「助けます」
「なんとまあ……女一人のために、表御三家の一角を敵に回すとはな」
 紅香は、愉快《ゆかい》そうに笑った。
「これだから面白《おもしろ》い。人生は面白い。この流れは読めなかった。わたしの人選は、大当たりってことか」
 タバコを灰皿に捨て、紅香は新たな一本を口に銜える。
「真九郎。わたしが、この柔沢紅香が道案内をしてやる」
「……いいんですか?」
「これも、約束の続きみたいなもんだろ」
 笑みを交換する二人を見て、缶ビールを床に置き、環も立候補。
「暇だし、あたしも付き合おうか?」
「酔っ払いはダメです」
「えーっ」
「環さんは、そこの桃缶でも食べていてください」
 じゃあそうする、とさっそく缶切りを探し始めた環に苦笑してから、真九郎は深呼吸。
 相手がどれだけの強敵か。あとでどうなるか。そんなことはどうでもいい。
 進む。紫に会う。それだけ。
 自分でも不思議なくらい、シンプルな答え。
 紫は、自分が子供だから言葉で全ての気持ちを表現できないと言っていた。
 それは真九郎も同じ。
 今のこの感情を何と表現すれぽいいのか、それは真九郎にもわからなかった。
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