红(4)

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   第四章 初めてのチュー


 真九郎《しんくろう》が暴力団という存在を知ったのは、まだ幼稚園の頃のこと。
 当時、銀子《ぎんこ》の家は様々なところに借金を重ねていて、その取り立てに柄の悪い男たちが度々《たびたび》やって来ていたのだ。借金は銀子の両親が作ったものではなく、銀子の母方の祖父が友人の保証人になった末に背負ったものなのだが、そんな事情を知ったのは後のことで、幼《おさな》い真九郎の目には男たちがただ恐ろしい存在として映った。遊びに誘おうと銀子の家の前まで行ったはいいが、男たちの罵声《ばせい》に怯《おび》えて引き返したことが数回。男たちは家の中にまで上がり込み、真九郎と銀子が遊んでいたオモチャをバットで叩《たた》き壊していったこともあった。真九郎の父は大の野球好きで、真九郎もビニール製のバットを持っていたが、まさかバットが凶器になるなど当時は思いも寄らず、そのときはあまりのショックから小便を漏《も》らしてしまった。銀子に慰《なぐさ》めでもらったのは明らかな恥《はじ》で、今でもたまにからかわれる。
 警察は何もしてくれなかった。そのことも、真九郎はよく覚えている。世の中には暴力団というものがあり、それは社会的にも存在を認められているのだと真九郎に教えたのは、銀子餐った。
「必要悪、とかいうんだって。ま、世界なんてそんなものよね」
 当時から大人びていた銀子は、冷たい口調でそう言っていた。
 記憶は風化しても、大事なものは必ず残る。
 ラーメン屋が繁盛《はんじょう》するのに伴《ともな》って、借金問題は解決したが、暴力団を嫌う銀子の考えは変わっていない。それは真九郎も同じ。上手《うま》く利用する手もあると紅香《べにか》から教わり、実際に何度か利用したこともあるが、根本的な嫌悪感は消えていなかった。自分とは決して相容《あいい》れない存在だと思う。
「……さてと」
 嫌な記憶を振り切るように息を吐き出し、真九郎は目の前の現実に取り組むことにした。
 極宝会《きょくほうかい》。国内最大組織の流れを汲《く》む暴力団の一派で、構成員は二百人足らず。八階建てのビルの入り口にあるプレートには、八階部分に「極宝会事務所」としっかり明記されていた。下の階は全《すべ》て金融会社だが、これも実体は極宝会の系列。つまり、ビル一軒丸ごとがヤクザの城。海外ならこの種の組織は地下に潜るのが普通で、表に堂々と看板を出しても法に触れないのは、この国くらいのものだろう。繁華街《はんかがい》の一角という地理条件から人通りは多いが、誰もが足早に素通りして行く。組事務所から飛んできた弾丸が通行人に命中して即死した、などという事例は枚挙《まいきょ》に暇《いとま》がないのだ。おそらくは警察官の身の安全を考慮《こうりょ》して、この辺《あた》りに派出所は見当たらず、一番近い場所でもニキロは先。銃声が聞こえ、通行人が善意で通報しても、警察官が駆けつけた頃には全て隠蔽《いんぺい》された後だろう。未解決事件は年々増加。警察官の成《な》り手は減り、質も低下して汚職が蔓延《まんえん》しているのが現状。
 それでも戦争から遠ざかって数十年というこの国は、世界基準では平和と認定される場所だ。何かが狂ってると真九郎は思うのだが、それを指摘できるほどの知能はなく、ただ適応して生きるしかなかった。
 真九郎はポケットからメモ用紙を取り出し、名前を再確認する。
 久能《くのう》|正《ただし》。極宝会の若頭《わかがしら》。
 真九郎は今日、その人物との交渉《こうしょう》のためにこの事務所を訪れようとしていた。
 今朝早く、部屋に一本の電話が入ったのだ。相手は、花村《はなむら》幼稚園の園長。花村幼稚園は、かつて真九郎と銀子の通っていた幼稚園である。電話の内容は仕事の依頼、というよりも園長に泣きつかれた。最近、悪質な地上げ業者に目をつけられ、幼稚園に度々嫌がらせをされるようになったという話。園児にも危害を加えられそうになり、警察に相談したが「実際に危害を加えられてから来てくれ」と追い返された話。そして数日前、何者かが園長の自宅に侵入し、土地の権利書を盗んで行った話。盗んだのは地上げ業者だと想像はついたが、園長はそれを警察に届け出ることはできなかった。土地の権利書が盗まれた際、犯人が部屋に残していった数枚の写真。それには、園長の娘夫婦や幼い孫たちが写っていた。園長は、それが無言の脅迫《きょうはく》だと察した。もし警察|沙汰《ざた》にすれば、犯人は娘夫婦と幼い孫たちに危害を加えるつもりなのだと。もはや閉園せざるを得なかった園長だが、そこで思い出したのだ。かつて卒園した子供たちの中に、揉《も》め事処理屋を営《いとな》む者がいることを。真九郎は営業の一貫として、自分が揉め事処理屋を始めたことを旧知の者に報《しら》せていた。園長はふくよかな女性で、自分と銀子にも優しく接してくれた人物。今では腰を悪くし、杖《つえ》が無ければ步けないほどらしいが、それでも生来の子供好きである彼女は以前と変わらず園児たちに接しているという。
 幼い頃に自分が見上げていた女性が、年老いて、泣きながら自分に助けを求めている。
 真九郎は迷った。
 真九郎は迷った。紫《むらさき》の護衛《ごえい》を引き受けた以上、それに専念すべきだろう。しかし、今のところ何も問題は起きておらず、トラブルの大基《おおもと》は既《すで》に紅香が解決してしまったのかもしれない、と思えるほど毎日が平穏《へいおん》。余力はある。夕乃《ゆうの》からもらったパジャマを着て呑気《のんき》に寝ている紫を横目に見ながら、真九郎は思案し、園長からの依頼を引き受けることにした。すぐに銀子に連絡を取り、地上げ業者の元締《もとじ》めがどこかを調べてから、放課後に行動開始。
 そして今、こうして極宝会の事務所前にいるわけである。依頼を引き受けたことに後悔はないし、暴力団を相手にすることにも不安はないが、ただ一点だけ、誤算があった。
 真九郎は、自分の隣に目をやる。斜《なな》め下だ。
「ここが暴力団とかいう者どものアジトか」
 遊園地のアトラクションにでも入るかのようにウキウキした様子で、紫がそう言った。
 仕事に子供を同行させるなど、プロの常識に反する。ならばどうしてアパートに置いてこなかったのかというと、彼女に言い負かされてしまったからだ。
 仕事に出かける、帰りは多分遅くなる、とそれだけを告げて出て行こうとした真九郎に、紫は自分も連れていけと主張。もちろん真九郎は拒否した。最近の暴力団は、海外のマフィアと変わらぬ武装と凶悪さを持ち始めている。紫のような子供を連れて行くなど言語道断《ごんごどうだん》。しかし、紫は胸の前で腕を組むと、挑発するようにこう言った。
「ほほう、おまえの学んだ崩月《ほうづき》流とやらは、子供一人もヤクザから守ることができんような、そんな情けないものなのか?」
「それは……」
「いざとなれば、必殺|技《わざ》の一つでも使えば良かろう」
「いや、そういうのは特に……」
「……何だ、しょぽいな」
「しょぼくないよ!崩月流ってのは、そりゃあスゴイもんで……!」
「ヤクザごときには負けんか?」
「ああ」
「なら安心だな。早く行こう」
「………」
 危険ならおまえが守ればいい、という強引にして単純な言い分に、真九郎は反論できなかったのだ。ここで引いては、崩月家の力を否定することになるような気がしたから。それでもやはり、紫を無視して出て行くのが常識。だが、さあ行くそ用意しろ真九郎、と靴を履《は》いて外に駆け出した紫を追っているうちに、何とかしてみるか、と真九郎は思えてきた。無邪気に突き進む紫を見ていると、自分の迷いや悩みがバカらしく感じられたのだ。そんなもの、一時の錯覚《さっかく》に過ぎないとわかっているのに。
 自分は破滅主義者かもしれないと、たまに思う。
 家族が消えてなくなったあの頃から、自然とそうなってしまったのか。
 けれど、それに他人を巻き込むつもりはない。何があろうと、紫だけは守り切ろう。
「紫、約束しろ。余計なことはしゃべるな。これは仕事なんだ」
「うむ」
 宣誓《せんせい》するように、紫は片手を上げる。まるで緊張感なし。
 ヤクザが何なのか一応説明したのに、この余裕。
 自分の子供の頃とは大違いだな、と思いながら、真九郎は紫を連れてエレベーターに乗った。

 

 交渉は、思いのほかスムーズに進んだ。
 ただの素人《しろうと》が乗り込んで来ても相手にされないが、揉め事処理屋となれば少しは違ってくる。お互い裏の業界のプロ。真九郎の若さ、そして子供連れという非常識ぶりに最初こそ胡散臭《うさんくさ》そうに見られたが、銀子に集めてもらった資料を提示すると態度が変わり、奥の応接間に通された。そして現れたのは、若頭の久能正。花村幼稚園の地上げを指揮している男つやり手の弁護士のような外見だったが、その目には暴力の世界で生きる者特有の狡猾《こうかつ》な光が宿っていた。
 向かい合うように置かれたソファに腰を下ろし、お互いに簡単な挨拶《あいさつ》を交わしてから交渉開始。久能は、紫の存在を完全に無視。紫は、「またそれか」という顔で真九郎の愛想《あいそ》笑いを見ていたが、口は開かず、隣でおとなしく座っていた。
 園長の自宅から土地の権利書を盗んだ件について、犯人に繋《つな》がる証拠を既に掴《つか》んでいる。
 真九郎は、まずそう切り出した。もちろんウソ。こんな短時間では、さすがにそこまで調べられるわけもない。普通なら相手も信じないが、極宝会と地上げ業者の関係を詳細《しょうさい》に記した資料はたしかなものぼかり。幹部しか知らない内部資料まであっては、真九郎の言葉に信憑性《しんぴょうせい》を感じざるを得なかっただろう。
 花村幼稚園の園長からの依頼だと話すと、銀子は格安でそれだけの情報を提供してくれたのだ。彼女は意外と人情家であり、何より暴力団が大嫌い。
 園長は、できるだけ穏便《おんびん》に済ませたいと思っている。だから、土地の権利書を返し、以後、花村幼稚園から手を引いてくれたらこの件は忘れると、真九郎は言った。一般市民には不可能な取引。暴力団は負けを認めない。メンツを保つためなら何でもする。勝つまで戦い続ける。一般市民では、到底《とうてい》対処しきれない。それを恐れないのは、同じく裏の業界の人間のみ。
 隣の紫を見ると、出されたジュースには口もつけず、久能のことをじっと観察しているようだった。初めて見るヤクザが珍《めずら》しいのだろうか。
 久能は資料を手に黙っていたが、しばらくして、その取引を受けると言った。部下に命じて封筒を持ってこさせると、土地の権利書だと言って真九郎に渡し、あの幼稚園からは手を引くと久能は明言。荒事《あらごと》抜きに片付けてこそ一流。自分はまだ三流だけれど、たまにはこんなふうに上手くいくこともある。
 真九郎は内心でホッと息を吐いたが、そこで、
「こいつはウソをついているぞ」
 隣にいた紫が、いきなりそう言った。
 紫は右手を伸ばし、久能の顔を指差す。
「こいつはウソをついている」
「おまえ……」
 突然何を、と真九郎は言いかけたが、紫が真顔《まがお》なのを見て言葉を呑《の》み込んだ。
 指を差された久能は、驚いたように片|眉《まゆ》を上げる。
「お嬢ちゃん、どうしてオジサンがウソをついてると思うのかな?」
「どうして?」
 ふん、と紫は鼻で笑う。
「ウソをつく者は、ウソをつく顔をし、ウソをつく声を出し、ウソをつくものだ。わかるに決まってるだろ」
 紫は椅子《いす》から身を乗り出し、罪人を裁くように断言。
「おまえは、ウソつきだ」
 真九郎は迷う。終わったはずの交渉に、波風を立てる紫。しかし彼女の言葉には、揺るぎない確信が込められていると感じた。
 久能の様子を窺《うかが》うと、彼は悩むように黙っていたが、しばらくして笑みを浮かべる。
「……こいつは参ったな」
 紫は胸の前で腕を組み、得意げに言った。
「この世には、ウソと真実がある。たった二種類だ。わたしは七歳だが、七年も生きていれば、その区別くらいできる」
「なるほど。これはオジサン、一本取られた」
 久能がハハハと笑い、口にタバコを銜《くわ》えて懐《ふところ》に手を入れたのを見た瞬間、真九郎は紫を抱きかかえて床に伏せた。銃由尾懐から抜いた拳銃を、久能は無表情で連射。確実に仕留《しと》めるため、そしてガキに虚偽《きょぎ》を見抜かれた腹いせに、引き金を引き続ける。
 銃声に気づいた部下たちが応接間に入ると、そこには子供を胸に抱いた客人が床に倒れ、その背中には十数個の穴が開いていた。久能は撃ち尽くした拳銃を床に捨て、宝石をちりばめたライターでタバコに火をつけると、部下に命じる。
「片付けろ」
 慣れているのだろう。いつものことなのだろう。部下たちは何の感慨《かんがい》も込めずに真九郎と紫に近寄ったが、紫の目が開いたのを見て驚く。
「久能さん、ガキの方がまだ……」
 男が全てを言うより早く、突然立ち上がった真九郎の裏拳《うらけん》がその顎《あご》を打ち抜いた。衝撃で男の首が曲がり、白目を剥《む》いて崩《くず》れ落ちる前に真九郎は跳躍《ちょうやく》。疾風《しっぷう》のように振り抜かれた右足の蹴《け》りが、並んで立っていた男二人の鼻を削《そ》ぎ落とす。着地と同時に、真九郎は別の男の喉《のど》を貫手《ぬきて》で潰《つぶ》し、最後の一人の股間《こかん》も蹴り潰した。そこでようやく、最初に裏拳を喰《く》らった男が床に
倒れる。
 一人は気絶し、残り四人は床の上で痛みにもがいているのを確認してから、真九郎はソファに座る久能にゆっくりと顔を向けた。
「いい性格してますね、久能さん」
 紫を殺そうとした久能に、真九郎は本気で頭に来ていた。自分に銃を向けるなら、まだいい。だが久能は、紫の方に銃を向けた。そして躊躇《ちゅうちょ》なく撃った。弾は全て真九郎が背中で防いだものの、もし一発でも紫に当たっていたら、真九郎は自分の感情を果たして抑えられたかどうかわからない。少なくとも、この場にいる全員を今以上に破壊していただろう。
 予想外の事態に、久能はソファの肘《ひじ》掛けを掴みながら震え出し、街えていたタバコが落ちる。
「て、てめえ、戦闘屋だったのか……!」
「だったら皆殺しにしてます。俺は、あくまで揉め事処理屋ですよ」
 真九郎が近寄ろうとすると、久能はソファから転がり落ちるようにして後退。力の信奉者《しんぽうしゃ》は、自分以上の力には屈する以外の術《すべ》を持たない。
 自分の足が震えているのを気づかれぬよう注意しつつ、真九郎は封筒を振って見せる。
「これ、本物ですか?」
 久能は悔《くや》しげに歯軋《はぎし》りしながらも、「偽物《はせもの》だ」と白状。真贋《しんがん》を見抜く技術が真九郎にはないと思い、取り敢《あ》えず偽物を掴ませて帰してから、園長を殺害するつもりだったらしい。依頼主が死んだ後も仕事を遂行《すいこう》する者は、裏の業界には少ない。要するに自分は舐《な》められたわけだな、と真九郎は納得。仕事を始めてまだ一年にも満たない自分は、この業界において愚鈍《ぐどん》な新参者《しんざんもの》だということ。
「今この事務所にいる全員が病院送りにされるのと、ここで素直に交渉を終えるのと、どっちにします?」
 目の前で部下たちを一蹴《いっしゅう》された久能からは、既に戦意が失《う》せていた。異変に気づき、さらなる部下たちが応接間になだれ込んで来たが、真九郎に向かおうとするのを久能は止め、本物の権利書を持って来いと命じる。このまま争っても怪我《けが》人が増えるだけ、という冷静な読みは、さすがに組織の若頭か。久能は部下から封筒を受け取ると、それを真九郎に叩きつけるようにして渡し、早く消えてくれと出口を示した。
 足の震えに気づかれて逆襲《ぎゃくしゅう》でもされたら面倒《めんどう》なので、長居は無用。
「帰ろう」
 床に座り込んでいた紫に真九郎が手を伸ばすと、彼女はそれに飛びつく。真九郎は紫を抱き上げ、殺気を放つ周りの男たちを目で牽制《けんせい》しながら、事務所を出た。エレベーターで一階に下り、ビルを出て大通りまで步き、人通りが増えてきたのを見てからようやく緊張を解く。
 危うく大失敗するところだった。何とかなったのは、紫のお陰《かげ》だ。
「紫?」
 真九郎は礼を言おうと思い、紫を見たが、彼女の眼差《まなざ》しは伏せられていた。その小さな手は真九郎の服を掴み、唇《くちびる》は引き結ばれている。言動が賢《かしこ》くとも、紫はまだ七歳の子供。おそらくは生まれて初めて遭遇《そうぐう》した暴力沙汰。自分に向けられた殺意をどう処理したらいいのか、混乱しているようだった。
 泣き喚《わめ》いたりしないだけ彼女は大人だ、と真九郎は思う。
 やはり、連れてくるべきではなかった。
 軽はずみな判断は自分のミスであり、恥《は》ずべきもの。
「ごめんな、怖い思いさせて」
 真九郎がそう詫《わ》びると、紫は一度真九郎の顔を見てから、その首にしがみついた。泣くのかなと思ったが、彼女はそれを堪《こら》え、でも僅《わず》かに涙声で言う。
「……いや、悪いのは、わたしだ」
 鼻水を啜《すす》り上げた紫は、そこで真九郎の背中の状態に気づく。
「真九郎!」
 小さな手で真九郎の顔を掴み、紫は慌《あわ》てた様子で言った。
「い、急げ! 血が出てるぞ!病院だ!」
「ああ、あとでな……」
「バカもの!」
 彼女の真剣な表情と声を正面から受け、真九郎は呆気《あっけ》に取られる。
「いいから、わたしの言うことを聞け、真九郎! 病院だ!」
 言葉は命令なのに、それは懇願《こんがん》しているように聞こえた。
 死なないでくれ、と。
 服を掴む紫の手が少し震えているのを見て、真九郎の口元が微かに緩《ゆる》んだ。
 この子にこんなに心配されることが、ちょっとだけ、嬉《うれ》しかった。

 

 山浦《やまうら》医院は、下町にある小さな病院だ。建物は古いが、評判は良く、地元のお年寄りから子供まで、通ってくる患者は意外と多い。院長であり、ここで唯一《ゆいいつ》の医者でもある山浦|銅太《どうた》は五十代後半の男。開業する前は、海外の戦地で軍の兵士やゲリラを相手に腕を磨《みが》いてきた人物だ。医者の前に患者は等しく平等という信念を持ち、誰であろうと差別はしない。子供の盲陽《もうちょう》を治し、切断されたヤクザの腕を繋ぎ、テロリストの体内から爆弾を摘出《てきしゅつ》する。医者は誰からも望まれる最高の職業だ、と語る山浦に、真九郎も同感だった。彼らの仕事は、人を救う。
「珍しいな、おまえが銃弾を喰らうなんて」
 診察台に寝た真九郎の背中を見て、山浦は頭を掻《か》きながらそう言った。山浦の頭には髪の毛が一本もなく、かわりに戦地にいた名残《なごり》として銃創《じゅうそう》かある。それでも子供の患者から怖がらないのは、その雰囲気《ふんいき》がひたすらに穏《おだ》やかなためだろう。
「ひい、ふう、みい………おいおい、何発喰らってんだ。体、鈍《にぶ》ってんじゃないのか」
「いろいろありまして」
 おとなしく診察を受けながら、真九郎が答える。
 拳銃を持つ者を相手にするのは、初めてではない。自分一人なら、どうとでも回避する術はあった。しかし、あの状況では真九郎が全て受けるしかなかったのだ。紫に、一発でも当てるわけにはいかない。幸いにして弾は背筋《はいきん》で食い止められ、内臓まで達したものは皆無《かいむ》。痛覚《つうかく》を和《やわ》らげる方法は学んでいるので、紫の前では一応の平静を装えた。だがそれも、紫を待合室に座らせ、診察室に入った途端《とたん》に集中力が切れてしまい、真九郎は倒れ込むようにして診察台に寝ることになった。
 ボディガードは大変だなあと、真九郎はしみじみ思う。
 真九郎の背中から、山浦はピンセットで弾を摘出。血と体液の糸を引く弾を慣れた手つきで処理して行くさまは、まさしく戦地での経験が活かされていた。ピンセットが傷口に触れるたびに激痛が走ったが、真九郎は歯を食いしばってそれを堪える。麻酔を使わないのは、真九郎の希望。麻酔を使えばしばらく感覚が鈍り、それでは紫の護衛に支障が出てしまう。怪我をしたのは自分の責任。この痛みは自業自得。
「相変わらず、たまげた頑丈《がんじょう》さだな。何食ったらこんな体になる?」
「鍛《きた》えれば、誰でもなりますよ」
 山浦があまり詮索《せんさく》してこないのは、言うほど驚いてはいないからだろう。異常な肉体など、戦地で見飽きているのだ。両目と顎と両手足を失っても、なお戦う意思を示した者。頭が半分吹き飛びながらも、半日步いて野戦病院まで辿《たど》り着いた者。腹に大穴が開きながらも、部下たちを前に演説して感動させた者。戦争という極限状況で若き日を過ごした山浦だからこそ、裏の業界に関《かか》わる者たちを見ても眉一つ動かさずに治療できるのだ。
「まあ、せいぜい死なねえように気をつけろ」
「そうします」
 山浦に傷口の消毒をされていると、真九郎は妙に陽気な声で名前を呼ばれた。
「おーい、真九郎くーん」
 待合室の方から現れたのは、ここの看護師で、山浦の愛人でもある東西《とうざい》|南《みなみ》。わざとサイズが小さ目のナース服を着用し、自《みずか》らのスタイルの良さを強調する、看護師らしからぬ色気に溢《あふ》れた女性だ。患者のお爺《じい》さんに胸や尻《しり》を触られても、「冥土《めいど》の土産《みやげ》にどーぞ」と笑って許し、ヤクザに口説《くど》かれても、「ごめーん、趣味じゃないの」と切って捨てる性格。医療に従事する人間にはとても見えないが、老若男女《ろうにゃくなんにょ》を問わず、患者からは意外と人気があるらしい。
「あのちっちゃい子さあ、君の何? これ?」
 小指を立て、南はニンマリと嫌らしい笑みを浮かべる。
「……環《たまき》さんと同じ発想はやめてください」
 南は環の中学の先輩で、そのッテで真九郎はここを紹介されたのだった。
「だってさあ、あの子の様子、まるで恋人を待つ女って感じ? 愛《いと》しい人の安否《あんぴ》を祈ってますって顔してるし」
 紫は、意外なほどおとなしくしているらしい。
 南がジュースを持って行き、話しかけたそうだが、
「真九郎が苦しんでいるときに、そんなものは飲めない」
 と、突っ返されたという。南はお菓子も渡そうとしたが、それも断られ、紫のあまりに真剣な様子に、ちょっと感動しているようだった。
「ちっちゃくても、女は女ってことかねえ」
 紫に渡すはずだったお菓子を、バリバリと食べ始める南。
 彼女を見ていると、類《るい》は友を呼ぶんだなあと、真九郎は思う。
 自分の交友関係を鑑《かんが》みると、あまりそうではないような気もするのだが。
「よし、これで仕上げだ」
 傷口の消毒を終えた山浦が、真九郎の背中に素早く包帯を巻いていく。その手つきを見て
「先生すごーい」と言いながら、まだお菓子を食べている南。
 あんたも仕事しろよ、と内心で抗議し、真九郎は診察台から体を起こした。しばらくは安静にするよう山浦から言い渡され、礼を言って待合室へ。扉を開くと、静かな待合室のソファの上で、紫が体を丸めて眠り込んでいた。待ち疲れたのだろう。待合室にはマンガやテレビもあるが、それにも手をつけた形跡はない。
 彼女はただ、じっと待っていたのだ、真九郎を。
 起こそうか迷ったが、真九郎はそのまま紫を抱き上げて帰ることにする。
 外に出ると、とっくに日は落ちており、夜の冷たい空気が傷口に染《し》みるようだった。
「そこのプレイボーイ、待ちたまえよ」
 南が毛布を持って現れ、それを紫の体にかける。紫の寝顔を見て微笑《ほほえ》み、その頬《ほお》を指で突つきながら南は言った。
「わたしみたいに、見た目も中身も伴った美人てのは、そうはいないもんなんだよねえ」
「はあ、そうですか……」
「でもこの子は、わたし以上になるかも」
「えっ?」
「十年後をお楽しみにってこと。大事にしてやんなよ、プレイボーイ」
 真九郎の肩を叩き、健闘を祈るぜ、と敬礼する南。
 毛布には感謝しつつも、何か勘違《かんちが》いしているなあ、と真九郎は思う。
 步き出した真九郎は、胸に抱いた紫から、眩くような寝言を聞いた気がした。街の雑踏《ざっとう》に掻き消されてすぐに消えてしまったが、それはこう聞こえた。
 ……ごめんなさい……。

 

 五月雨《さみだれ》荘に着き、部屋に入って電気をつけたところで紫は目を覚ましたが、様子がおかしかった。真九郎から距離を取り、項垂《うなだ》れるように視線を伏せ、部屋の隅《すみ》に腰を下ろしたのだ。
「紫、悪いけど、今日は風呂無しでもいいか? この時間だと、銭湯《せんとう》は閉まってるんだ」 返事がない。事務所での件が、まだ尾を引いているのか。
 しぼらくそっとしておこうと思い、真九郎が南から借りた毛布を畳《たた》んでいると、紫はやっと口を開いた。
「……怒っているか?」
「何を?」
「わたしが、おまえの言い付けを守らなかったせいで、おまえが、怪我をして……」
 真九郎の怪我のことで、紫は責任を感じているようだった。しおらしく見えるのは、真九郎が自分を責めるのではないかと思い、それに耐える準備をしているつもりなのだろう。
 真九郎は、何だか可笑《おか》しくなってしまった。
 考え過ぎだ。責められるべきなのは、真九郎であって紫ではない。
 真九郎は紫の側《そば》に行き、顔を寄せる。
「怒るわけないだろ。おまえには、むしろ感謝してる。ありがとう」
「で、でも、おまえはわたしを庇《かば》って怪我を……」
「紫、こっちを見ろ」
 恐る恐るというふうに顔を上げ、真九郎を見る紫。
「俺がウソをついてると思うか?」
 彼女は、ウソを見抜けると言っていた。それは本当のことだろう。だから真九郎の愛想笑いを誰より嫌い、事務所では久能の虚偽も看破《かんぱ》したのだ。
 紫の大きな瞳《ひとみ》に、真九郎の顔が映る。
「どうだ、俺はウソをついてるか? 本当は怒ってるのに、無理してるだけか?」
 しばらく待つと、紫は首を横に振った。
「だろ? 俺は、全然怒ってない」
 そう言って笑った真九郎を、紫は真剣な表情で見つめていた。
 まだ納得いってないのかなと思い、真九郎は紫の脇《わき》の下に手を入れ、持ち上げる。なんて軽さ。ここ数日で何回か経験したことだが、子供というのは本当に軽くて小さいものだと、改めて実感する。こんな子に、拳銃をぶっ放す奴《やつ》がいる。それは単純に人の悪意だけでは説明できない、この世界自体の歪《ゆが》み。
「おまえが無事で良かったよ」
 真九郎は紫を抱きしめ、背中を軽く叩いた。わざと子供|扱《あつか》いすることで紫を少し怒らせ、いつもの調子に戻してやろうと思ったのだ。しかし、彼女はおとなしくされるがままになり、それどころか真九郎の肩に頭を乗せ、フフッと微笑む。
 まるで、宝物でも見つけたかのように。
「真九郎の笑った顔は、とてもいいな」
「えっ?」
 真九郎は、片手で自分の顔を触った。知らぬ間に笑っていたのか。
「ありがとう、真九郎」
「何が?」
「悪い奴らを、やっつけてくれた」
「いや、あんなのは……」
「真九郎は、強い」
 俺が強い?
 そんなことを誰かから言われるのは、初めてだった。
「強い」とは、紅|真九郎《くれない》からもっとも縁遠《えんどお》いもの。
 自分は強くない。強いわけがない。
 そう訂正《ていせい》したくなる真九郎に、紫は目を閉じながら言う。
「真九郎は、強いし、温かい……」
 全てを委《ゆだ》ねるように紫は体の力を抜き、しかし、その小さな手だけはしっかりと真九郎の服を掴んでいた。
 ……眠いのかな?
 彼女があまりに無防備なので、真九郎はそう思った。
 それとも、風邪でも引いたのか。
 念のため熱を測ろうと、真九郎は紫の額《ひたい》に手を当てる。紫は少し頬を赤くし、くすぐったそうに笑った。熱はない。だが、この反応はなんだろう。何か変だ。
 試しに頭を撫《な》でると、紫は嬉しそうに鼻を鳴らし、頬を胸に擦《こす》りつけてくる。その柔らか左頬を触っても、小さな耳を軽く引っ張っても、やはり嬉しそうだった。
 理由はさっぱり不明だが、紫は上機嫌らしい。
 時計に目をやると、普段ならとっくに夕飯を済ませている時間。真九郎だけなら一食抜いても問題ないが、紫がいてはそうもいかない。夕飯の支度《したく》のため、真九郎は紫を床に下ろす。紫は名残|惜《お》しそうだったが、真九郎が「お腹《なか》|空《す》いたろ?」と訊《き》くと、素直に「うん」と頷《うなず》いた。
「ちょっと待ってろ」
 エプロンを着け、台所に向かう真九郎。
 その背中に、紫は声をかける。
「なあ、真九郎」
「ん?」
「おまえ、恋人はいるか?」
「いないけど」
 真九郎は冷蔵庫から卵を出すと、それを片手で割り、油を引いたフライパンに入れた。
「夕乃は違うのか?」
「夕乃さんは、姉さんみたいなもんだよ」
「散鶴《ちつる》は?」
「……ちーちゃんは、そういう対象にはならんだろ」
「そうなのか。では、環は?」
「あれは論外」
「ということは、本当に、おまえに恋人はいないのだな?」
「ああ、いない」
 答えてから真九郎は何となく虚《むな》しくなったが、事実だ。見栄《みえ》を張っても、なお虚しいだけだろうし、そもそも紫にウソは通じない。
「ふむ、そうか。そうかそうか。ふむふむ」
 背中で紫の満足そうな声を聞きながら、こいつやっぱり変だな、と真九郎は思った。
 まあ今日の出来事は彼女にとって衝撃的だったのだろうし、それでいくらか興奮《こうふん》しているいうことか、と解釈。
 とにもかくにも、この子を守れて良かった。
 ガス台の上でフライパンを振りながら、真九郎はそう思った。
 翌朝、真九郎はドアをノックされる音で目を覚ました。窓から差し込む弱々しい明かりを頼りに目を凝《こ》らすと、時計は午前六時を示している。
 再びドアをノックする音。続いて声。
「真九郎さん、起きてますか?」
 夕乃さんまた来たのか……。
 こうして不意討《ふいう》ちのように見に来るということは俺って信用されてないんじゃ、などと寝惚《ねぼ》け頭で考えながら「今起きました。どうぞ」と返事をする。昨晚は、交渉が上手くいったこ》を園長に電話で報告し、土地の権利書は後日届けると伝えてから就寝《しゅうしん》。傷の痛みは酷《ひど》かったが、わりとよく眠れた。何の夢も見ずに寝たのは、久しぶりかもしれない。
 鍵《かぎ》を開けて入ってきた夕乃は、早朝とは思えない明快な口調で挨拶。
「おはようございます、真九郎さん」
「……おはようございます」
「今日の天気は曇《くも》りですよ。湿度は三十五%。降水確率は二十%です」
「……それで?」
「言ってみただけです」
 朝からこんなふうにからかわれても、怒る気になれないのは、相手が夕乃だからか。
 彼女の声は、耳に優しく響く。
「今日は、ちゃんと三人分の食材を……あれ?紫ちゃんは、どうしたんですか?」
 そこにいるはず、と真九郎が目を向けた先には、もぬけの空《から》になった布団《ふとん》があるのみ。慌てて体を起こそうとした真九郎は、そこで初めて違和感に気づく。自分の布団を持ち上げると案の定、紫がそこで寝ていた。イチゴ模様がプリントされたパジャマを着て、真九郎の腰の辺りにしっかりと抱きつきながら。
 どうして今まで気づかなかったのか、真九郎は自分でも不思議だった。こんなふうに抱きつかれたら邪魔で寝にくいはずなのに、窮屈《きゅうくつ》さを感じることもなく、昨晚はよく眠れたのだ。
「おい、紫」
「……ん………ん…」
 紫は何か寝言を言いながらもぞもぞと動き、さらに真九郎に抱きついた。その顔の位置が股間に迫っているのを見て真九郎は身を離そうとしたが、紫の手はしっかりと腰に掴まり、逃弐ない。
「ちょっと、おまえ、いい加減に目を覚ませって! でないと……」
「真九郎さん」
 ああやっぱり。
 振り返るまでもなくわかる、夕乃の微笑み。
「真九郎さん、そこに座りなさい」
「あの、夕乃さん……」
「座りなさい」
「もう座ってますけど……」
「正座!」
「はい」
 真九郎が正座をすると、さすがに寝づらくなった紫がようやく目を覚ました。目を擦《こす》りながら欠伸《あくび》を漏らし、まず真九郎を見て、次に夕乃を見て、それから真九郎の正座した膝《ひざ》を見て、そこに頭を下ろして二度寝。すぐに寝息が聞こえてくる。
 学生|鞄《かばん》と食材を詰めた袋を持つ夕乃の手が、微かに震えていた。
「……膝枕。いいですね、膝枕。わたしもまだやってもらったことがない膝枕」
「いや、こういうのって普通、男女が逆じゃ……」
「良かったですね、真九郎さん。少し見ないうちに、こんなに仲良くなるなんて、わたし、思いませんでした。ええ、思いませんでしたとも……」
 このままでは埒《らち》があかない。真九郎は、とにかく紫を起こすことにした。肩を揺すり、何彦か名前を呼ぶと、紫はさっきより少しだけハッキリした様子で目を開ける。
「……おはよう、真九郎。もう朝食の時間か?」
「おまえ、何で俺の布団に入ってる?」
「仕方なかろう。昨日の夜は寒かったのだ。そしておまえは温かい。当然の選択だ」
 そうだったかな、と真九郎は首を捻《ひね》るが、電気ストーブは不調であるし、否定もできない。 体を起こし、大きく伸びをする紫に夕乃が挨拶。
「おはようございます、紫ちゃん」
 どれだけ機嫌が悪くとも、崩月夕乃は八《や》つ当《あ》たりなどしない。
 いつもの朗《ほが》らかな微笑みを浮かべる。
「よく眠れた?」
「うむ、ぐっすりというやつだ。昨日は、真九郎から良いことを聞いたからな」
「良いこと?」
 紫は口に手を当て、上品に欠伸を漏らしてから言った。
「夕乃は、真九郎の恋人ではなかったのだな」
「……恋人?」
 夕乃の視線は真九郎に向かったが、真九郎はブンブンと首を横に振った。
 深く考えなくていいよ夕乃さん。子供の言うことだから。
 真九郎はそういうメッセージを送ったつもりだったが、その努力を紫が破壊する。
「真九郎は、夕乃のものではない。それを知って、わたしは安心したぞ」
 真九郎にピタリと身を寄せる紫。
「紫ちゃん、女の子がはしたないですよ。殿方《とのがた》とは適度な距離を取るもので……」
 紫は、あっかんベーと舌《した》を出し、真九郎の腕を嬉しそうに抱きしめた。
 それでも夕乃は笑顔で注意。
「離れなさい、紫ちゃん」
「嫌だ」
「紫ちゃん」
「嫌だ」
「……真九郎さん」
「えっ、俺?」
 こっちに矛先《ほこさき》が向いた。
「あー、これは、その、何というか……」
 どう言い訳すればいいのか、真九郎は必死に頭を働かせながら、取り敢えず、この状況から導き出される簡潔な結論を得る。
 この二人は相性が悪いらしい。
 それ以外にこんな状況になる理由など、思いつかなかった。

 

 真九郎は学校に着くまでの道中、夕乃にいろいろと小言を、具体的には人としてのあり方や正しい恋愛感や都の条例や法律や倫理《りんり》などを、切々と説かれた。
「……というわけで、姉さん女房をもらった方が、殿方は幸せになれるのです」
「はあ、なるほど」
 そんな結論になるんだ、と思いながら真九郎は曖昧《あいまい》に頷く。
「だいたい、紫ちゃんはズルイですよ。わたしなんて学校でしか真九郎さんと会えないし、それだって節度を守ってるのに。ああ夕乃さんはうぜーなー、とか真九郎さんに思われたら悲しいですし」
「いや、そんなことは思わないけどね……」
「ところで真九郎さん」
「はい」
 今度は何だろうと身構えていると、夕乃は真顔で言った。
「あなた、不覚を取りましたね?」
 バレたか、と真九郎は降参《こうさん》。
 背中の傷のことは隠すつもりだったが、夕乃が相手では些細《ささい》な動き一つでも見抜かれてしまう。紫を同行させた件を除いて真九郎が白状すると、崩月家の|弟子《でし》が拳銃ごときに遅れを取るとは何たる無様《ぷざま》な、と夕乃に叱《しか》られた。真九郎が拳銃で撃たれたことには動揺もせず、対応の不味《まず》さを叱るというのが、いかにも崩月家の人間らしい。
「明日、傷薬を持って来ます。銃創によく効《き》くものを、お祖父《じい》ちゃんが持っていますから」
「てことは、師匠《ししょう》も銃で撃たれた経験があるんだ?」
「それはありますよ。でも、怪我はしませんでしたけどね。その種の傷薬は、未熟な弟子用にわざわざ作ったものです」
 未熟、という部分を強調する夕乃。
 紫の件で、まだ少し怒っているらしい。たしかに今朝の紫の様子は、少し変だった。単純に機嫌が良いというのとも違う、不可解な態度。あれは何なのか。
 校門を通り、下駄《げた》箱が見えてきたところで、「それでは、今日も一日|健《すこ》やかに」と手を振りながら去って行く夕乃。それに手を振り返しながら、相手は子供、いちいち深い意味を求めても仕方がないよな、と真九郎は思う。
 まあ気のせいだろう。
 真九郎は欠伸を一つ漏らし、教室に向かうことにした。

 

 気のせいではなかった。紫の様子は、やはり変だったのだ。
 まず第一に、掃除や洗濯などを手伝うようになった。
 以前なら、
「それは使用人の仕事だ。使用人はおまえだ。つまり、おまえの仕事だ」
 と言い、ゴミ袋一つ外に運ぶのさえ拒否していた彼女が、真九郎が学校に行っている間に竹箒《たけぼうき》を握り、共同玄関前の落ち葉を掃《は》いたり、廊下をモップで磨いたりするようになったのだ。洗濯のときは、両手で籠《かご》を持ちながら真九郎のあとをついてくるし、取り込んだ洗濯物を畳んだりもする。もちろん、慣れないことなので上手くはなく、あとで真九郎がやり直すことも多いが、紫は不器用ながらも手伝う。しかも楽しそうに。
 そして第二に、やたらと真九郎に近づくようになった。以前は真九郎に触られることを嫌っていたのに、今では気がつくとすぐ側にいることが多い。朝晚の歯磨きは真九郎と並んでしたがるし、トイレも一緒に行きたがった。真九郎がちゃぶ台で学校の宿題をしていると、その背中に自分の背中を合わせて座り、環から借りた少女マンガ『奥様は小学生』などを読んでいる。
「真九郎、『男はみんなオオカミ』とは、どういう意味だ?」
「大人になればわかる」
「真九郎もオオカミなのか?」
「……そんなことより、おまえ、あんまりくっつくなよ」
 思い切って真九郎がそう言うと、紫は急に悲しそうな顔になり、
「ダメか?」
 と、ねだるような目で見つめてくる。
 ああダメだと言ってやるつもりが、真九郎の口から出てきた言葉は真逆《まぎゃく》。
「別に、いいけど……」
 何を言ってるんだ俺は、と思いながらも、それを聞いて紫が嬉しそうに笑うのを見ていると、まあいいかな、と全てを許してしまいたくなる。
 自分のこの心の動きも、どういうことなのか。
 どうしてこんなことになったのか。

 

「おかえり、真九郎」
 学校から帰った真九郎を、共同玄関前で落ち葉を掃き集めていた紫が出迎えた。長い竹箒は小さな彼女の手には余る代物《しろもの》に見えたが、そろそろコツを掴んだのか、落ち葉は綺麗《きれい》に集められている。意外と覚えが早い。賢さと勘の良さ、その両方だろうか。
 ただいま、と答えてから、真九郎は紫の服装に目をやった。
「おまえ、それどうした?」
 紫は、子供用と思《おぼ》しきエプロンを身につけていた。可愛《かわい》いヒヨコの絵柄で、フリルのついたデザイン。
「これは、環にもらったのだ。『ばちんこで勝ったから、お土産』と言ってたぞ」
「パチンコね……」
「どうだ、似合うか!」
 期待の眼差しで見上げてくる紫に、真九郎は頷いた。
「よく似合ってる」
「ムラムラするか?」
「いや、そういうのは……」
 紫は途端に膨《ふく》れっ面《つら》になり、「夕乃にはするくせに」と不満そうに呟《つぶや》く。
 意味わかってるのかこいつは、と思いながらも真九郎は補足。
「あー、でも、可愛いよ」
「……本当か?」
「ああ」
「そうか!」
 はにかむように、えヘへと笑い、紫は真九郎の腰の辺りに抱きついた。
 真九郎は両手を伸ばし、紫の頬をむにっと摘《つま》む。
「環さんや闇絵《やみえ》さんに、迷惑かけてないか?」
「わたしを信用しろ。真九郎を悲しませるようなことは、しない」
 真九郎が自分に構ってくれるのがよほど嬉しいのか、紫はニコニコしていた。
 こんなに無防備な奴だったかな、と真九郎は思う。
 何というか、こそぼゆい感覚だ。
 彼女の相手をしていると、普段は眠っている自分の中の善性が呼び起こされるような気がする。自分にこんな面があったのか、と少し驚く。
 掃除を切り上げて銭湯に行くことを真九郎が提案すると、紫は元気良く頷いた。
「うむ、行こう!」
 さっそく準備だな、と竹箒を抱えて部屋に戻って行く紫の後ろ姿を見送りながら、真九郎は思う。

 

 本当に、どうしちゃったんだ、あいつは……。
 風呂においても、紫は少し様子が違っていた。
 以前は脱衣所で堂々と裸《はだか》をさらしていたのに、タオルで隠すようになったのだ。しっかりと体にタオルを巻きつけ、紫は言う。
「女は、恥じらいがなくてはならぬ。そういうものに、男はよろめくのだろ?」
「ま、そうだな」
 これはいい変化だと思えたので、真九郎はそれを肯定。
 子供の変化は、すなわち大人への成長か、などと思った。
 子供は成長して大人になる。では大人は、成長すると何になるのか。
 普段なら、そんなくだらない物思いにふけることもあるのだが、今は紫がいるので、そうもいかない。
「見ろ、真九郎! ついに、わたし一人で頭を洗うことに成功したぞ!」
「はいはい、良かったな」
 真九郎は紫の頭を軽く撫でてやり、一緒に湯船に浸《つ》かる。真九郎がやるのを真似《まね》て、紫も自分のタオルを頭の上に乗せたが、絞《しぼ》り切れてない水滴が顔にまで垂《た》れ、苦戦していた。真九郎が紫のタオルをきつく絞ってから頭の上に乗せてやると、彼女はニッコリ微笑む。
「ありがとう、真九郎」
 こいつ本当によく笑うようになったな、と真九郎は思う。
 見ていると、心の何処《どこ》かを刺激されるような笑顔だ。
 紫は、湯船の中でも蛇口《じゃぐち》の側に腰を下ろす。蛇口をひねって水を出し、自分の周りだけお湯が温《ぬる》めになるよう調節。真九郎が教えたことだ。
「真九郎、もう平気か?」
「ん、何が?」
「背中の傷だ。もう痛くはないのか?」
 さすがに跡は残っているが、夕乃にもらった薬はよく効き、傷口は既に塞《ふさ》がっていた。
 紫は、毎日朝と夜に薬を塗ってくれていたが、まだ心配なのだろう。
 もう平気だと真九郎が答えると、紫は安心したように息を吐く。
「なあ、真九郎」
「ん?」
「真九郎は、どうして揉め事処理屋になったのだ?」
「……紅香さんに憧《あこが》れたから、かな」
 紫は「ふーん」と頷き、肩までお湯に浸かった。
 真九郎も同じように肩までお湯に浸かり、しばし目を閉じる。
 崩月家に引き取られたばかりの頃は、ただ強くなりたい一心で、先のことを考えられるような心境ではなかった。いくらか落ち着き、初めて自分の未来を想像する余裕ができたとき、法泉《ほうせん》は「おめえの好きにすればいい」と言ってくれた。身につけた力をどう使うのも自由だと。ただし、崩月家の弟子であることを軽々しく公言することだけは禁じられた。
 自分が崩月家の弟子だと口にするのを許されるのは、絶対に退《ひ》かない覚悟が、死んでも負けない覚悟が、屍《しかばね》になっても相手の喉笛《のどぶえ》に喰らいつく覚悟が、たしかにあるときだけ。だから今のところ、真九郎は仕事で崩月家の名を出したことは一度もない。
 自分がなりたいものは何かと具体的に考えたとき、浮かんだのは柔沢《じゅうざわ》紅香の姿。彼女こそは、真九郎が生まれて初めて出会った強者《つわもの》。政府からの依頼を受け、自分や銀子を含む子供たちを人身売買組織から救い出した彼女の活躍はあまりにも鮮烈で、法泉や夕乃、そしてそれ以外の強者たちと出会ってからも色あせることはなかった。
 紅香が崩月家を訪れた際、真九郎は試しに訊いてみた。どうして揉め事処理屋になったんですか、と。彼女はこう答えた。「それしか能がないからだ」。使命感も理想もなく、ただ自らにできることをやっているだけで、それでも人を救えてしまう紅香に、真九郎は憧れた。だから真九郎も揉め事処理屋になった。要するに模倣《もほう》。強い人を真似れば自分も強くなれるのではないかと、そう思ったのだ。
 それが錯覚に過ぎないと気づいたのは、いつだろう。
 最初から気づいていたのに、わざと考えるのを避けていただけなのか。
 最初から、自分の選択は間違っていたのか。
 真九郎が目を開けると、紫が少し熱そうに見えたので、彼女の頭からタオルを取り上げる。蛇口から流れる水でタオルを冷やし、絞ってから、改めて紫の頭の上に。紫は礼を言い、心地良さそうに目を細めると、浴槽《よくそう》の端に顎を乗せた。
「なあ、真九郎」
「今度は何だ?」
 質問が多いなあ、と苦笑する真九郎の顔を一度見てから、紫はその視線を下げる。
「それを触っても良いか?」
 彼女が指差したのは、真九郎の股間。
「後学のために、触らせてくれ」
「……ダメだ」
「ちょっとでいい」
「おまえ、恥じらいはどうした、恥じらいはー」
 何がどういけないのかわかってないらしく、紫はキョトンとしていた。
「わたしが触ると、何か大変なことにでもなるのか?」
「い、いや……ならないけどさ」
「なら良いではないか」
「ダメ! とにかくダメ!」
 紫はしばらく「むう」と唸《うな》っていたが、やがて何かを思いついたのか、笑顔で言う。
「ではこうしよう。交換条件だ」
「交換条件?」
「おまえに、わたしの体の好きな部分を触ることを許す。だから……」
「ダメなもんはダメだ!」
 紫はまだ未練がありそうだったが、真九郎が拒否し続けるのを見て断念。真九郎が湯船か広上がると、彼女もそれに合わせる。少しふらつく足元は、長湯に耐えていた証拠か。危ないので仕方なく、真九郎は紫を抱きかかえてやった。嬉しそうに身を預けてくる紫の様子に、何とも言えない気持ちになる。あの傲慢《ごうまん》な彼女は、どこに行ってしまったのか。
 これは何なのだろう。どういう心境の変化なのだろう。
 どうしてこんなに懐《なつ》かれたのだろう。
 真九郎には、何もかも、さっぱりわからなかった。
 また発作《ほっさ》がきた。
 あの日のことが、どうしてこんなに鮮明に記憶に残り続けるのだろう。どうして薄れてくれないのだろう。どうして時間は癒《いや》してくれないのだろう。粘《ねば》つく記憶は体にまとわりつき、決して自分を逃がさない。いつまでもいつまでも苦しめる。
 目を開けると暗かった。真九郎は視線と両手を動かし、そのうちに闇《やみ》に慣れた目が天井の裸電球を見つけ、指が床の畳《たたみ》に触れ、自分の部屋だとわかり、どうにか心が落ち着く。
 窓の外は暗闇で、まだ朝日の気配すら感じられない。喉が渇いていたが立ち上がる気がせず、天井を見ながら真九郎は呼吸を整える。汗《あせ》で濡《ぬ》れた肌《はだ》に夜の冷たさが染みたが、それによって頭も冷やされるような気がした。
 聞こえるのは、自分の荒い呼吸音だけ。それは次第《しだい》に穏やかになったが、体は嫌な疲労感に満たされていた。師匠や夕乃にしごかれるよりも遙《はる》かに深く、不愉快《ふゆかい》な疲労。心まで枯れるうなこの感覚は、真九郎を捕らえて離さない。八年前のあの日から、ずっと。
 真九郎の家族は、アメリカで死んだ。
 父親の仕事の都合で、家族揃《そろ》ってアメリカに引っ越すことが決まったとき、真九郎は特に不安ではなかった。父がいて、母がいて、姉がいる。みんな一緒なのだ。大丈夫。何も怖くはない。銀子と離れるのだけは辛《つら》かったが、悲しむ真九郎とは対照的に、銀子は平気な顔で、絶対手紙書きなさいよ、と言い、指切りを要求するだけだった。それでも彼女は空港まで見送りに来てくれたし、別れるときには少しだけ瞳が潤《うる》んでいるようにも見えた。銀子ちゃん泣いてるの、と訊くと、うるさいバカ、と銀子は真九郎を叩き、それから本当に泣いてしまった。わんわん泣く二人を、姉が優しく抱きしめてくれた。
 初めて乗る飛行機は楽しかった。全身を包む浮遊感や、窓の外に広がる雲は感動的だった。隣に座る姉に手を握ってもらいながら、真九郎は空港に着くまで安心して寝た。姉に起こされて飛行機を降りると、空港にいる外国人の数に圧倒され、そこら中から聞こえる異国の言葉に心細くなり、また姉の手を握った。姉が何かを言い、真九郎は安心した。真九郎は姉のことが大好きで、彼女の声を聞けばいつでも安心できたのだ。荷物を受け取り、どこかで食事でもして行こうか、と父が提案したとき、突然、辺りが暗闇に包まれた。まるで神様が太陽を隠したかのように光が失せ、何もかもが見えなくなった。真九郎は耳を澄《す》ませたが何も聞こえず、体も動かなかった。まともに働くのは、嗅覚《きゅうかく》と味覚だけ。とても嫌な、何かが腐るような臭《にお》いがした。口の中にも、嫌な味が広がっていた。ジャリジャリとした細かいものが口の中に突き刺さり、息をするだけでも痛かった。父はどこだろう。母はどこだろう。姉はどこだろう。お父さんお母さんお姉ちゃんみんなどこにいるの。真九郎は叫んだ。何が何だかわからない。でも、何か大変なことが起きたことだけはわかる。助けてください。お願いします。助けてください。お願いします。神様。神様。神様。自分の声は聞こえなかったが、喉が震えていることは感じられたので、真九郎は叫び続けた。誰も答えなかった。答えてくれなかった。目は見えず、耳は聞こえず、体は動かない。嫌な臭いはどんどん酷くなり、喉の奥から機内食が逆流し
てきた。嫌な臭いに自分が吐いたモノの臭いが加わり、耐えられなくなってまた吐いた。胃がビクビクと痙攣《けいれん》し、口から飛び出しそうになるほど苦しかった。でも、誰も助けてくれなかった。 しばらくして、真九郎は思った。ここは地獄なのかもしれない。前に銀子ちゃんから聞いたことがある。悪い人は、死んだ後で地獄に堕《お》ちると。地獄とは、苦しみが永遠に続く場所らしい。だったら自分はもう既に死んでいて、今は地獄にいるのだろうか。目も耳も手も足も奪われ、この苦しみが永遠に続くのか。真九郎は泣いた。どうして僕は死んだのだろう。どうして地獄に堕ちたのだろう。何か悪いことをしたのだろうか。わからない。でも、わからないからダメなのだろうか。真九郎は謝った。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。神様、どうか許してください。助けてください。お父さんにお母さんにお姉ちゃんに、僕はまた会いたいです。銀子ちゃんにも会いたいです。まだ死にたくないんです。死ぬのは嫌です。助けてください。どれだけ泣いたのか、どれだけ叫んだのか、わからない。もはや全ての気力が失われ、何かを考えることさえできなくなったとき、微かに音がした。とても重くて硬《かた》いものが動くような音。崩れるような音。良かった、聞こえる。僕の耳はまだある。そしてしばらくすると、光が見えた。良かった、見える。僕の目はまだある。やがて音も光も強くなり、それはハッキリしたものに変わった。音は、真九郎の周りにあるものを動かす音。光は、空に浮かぶ太陽の光。真九郎の上に乗っていた大きくて重いものがどかされると、激しい埃《ほこり》が舞ったが、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。虚《うつ》ろな意識の中で、真九郎は意味のわからない言葉を聞いた。空港で聞いた、異国の言葉。眩《まぶ》しい太陽に目を細めていると、上から手を伸ぽされ、真九郎は誰かに抱き上げられた。手と足が少しだけ動いた。良かった、動く。僕の手足はまだある。真九郎を抱き上げたのは救急隊員らしき装備を身につけた外国人で、真九郎の頬に触れ、意識があることを確認しているようだった。助かった。僕は助かった。死んだわけじゃなかった。地獄じゃなかった。
 じゃあいったい、何が起きたのだろう?
 視線を動かし、真九郎は見た。自分の周りにあるものを。臭いの正体を。おびただしい数の死体。父と母と姉を含んだ死体。真九郎は、自分が思い違いをしていることを知った。喉が潰れるほどの声で、世界の果てまで届くほどの声で、泣いた。自分は助かったわけじゃない。
 ここは、地獄だ。
 それは大規模な爆弾テロ。膨大《ぼうだい》な数の民間人を狙《ねら》った、無差別テロ。空港は全壊し、瓦礫《がれき》の山に押し潰された者がどれだけいたのか、どれだけ死んでどれだけ助かったのか、テレビや新聞では報道されたが、真九郎は知ろうともしなかった。父が死に、母が死に、姉が死んだ。それ以上何を知る必要があるのだろう。真九郎は病院を退院するまでに、一度しか言葉を発しなかった。日本から見舞いに来てくれた銀子に、感情の消えた顔を向け、真九郎は言った。
 銀子ちゃん。僕を、殺して。
 本気でそうして欲しかった。本当に殺して欲しかった。そうすれば父にも母にも姉にも会えるから。みんなに会うために、真九郎は死を望んだ。銀子が何かを、必死に何かを言ってくれたが、それは真九郎の心には届かなかった。真九郎は、ただ会いたかったのだ。父と母と姉に、また会いたかった。どうしても会いたかった。死んだ者とはもう会えない。死んだら終わり。何もかも終わり。もう誰にも、どうにもならない。だったら自分も死ぬしかない。死にたい。
 自分を産んでくれた者が消えた世界。自分と血を分けた者が消えた世界。自分に無条件で愛情を与えてくれた者が、全て消えた世界。それは地獄と何が違うのだろう。
 一人は嫌だ。そんなのは、絶対に嫌だった。一人になってしまったら、喜びも悲しみも分かち合うことができない。楽しくても一人で笑い、悲しくても一人で泣く。それがずっと続く。この世界に、この気が遠くなるほど広い世界に、たった一人でどうやって生きていくのだろう。
 あれから八年が経《た》った今でも、真九郎はたまに思い出す。自分が一人だということを。これからもずっと一人だということを。家族とは、もう二度と会えないということを。思い出して、ゾッとする、その恐ろしさに。
 窓の外の闇は、いつまでも薄れる気配がなかった。朝が訪れるのはまだ先。夜は嫌いだ。闇が記憶の扉をこじ開け、あのときのことを嫌でも思い出させる。手足が砕《くだ》けた感覚と父と母と姉の体が腐った臭い。全身が引き裂かれるような絶望感。
 真九郎は、震える手で拳《こぶし》を握った。紫は真九郎のことを強いと言ったが、それは違う。真九郎はよく知っている。自分は弱い。とても弱い。たった一人でもどうにか生き続けられるよう
に、紅香を頼り、崩月家に引き取られた。そして、それは成し遂《と》げられなかった。崩月家で得
たものは、頑強《がんきょう》な鎧《よろい》と強力な武器。でも、強靭《きょうじん》な精神だけは得られなかった。どれだけ肉体を鍛えようと、その持ち主は弱虫のままだった。稽古《けいこ》は平気でも、いざ実戦となると足が震える。どうしても震える。相手の戦意や殺意に、心の底に居座り続ける弱虫が震え出す。
 真九郎が崩月家を出て一人暮らしを始めたのは、それが理由。崩月家の者たちに、真九郎は申し訳ないと思ったのだ。八年間も、自分を育ててくれた。本当の家族のように優しく接し、厳しく鍛えてくれた。強くなりたいと願う真九郎のために、みんなが協力してくれた。真九郎は崩月家の者たちが大好きで、本当に本当に感謝していた。どれだけ頭を下げても足りないくらい、感謝していた。だからこそ、申し訳なかったのだ。八年間も尽力してくれたのに、あんなに優しくしてくれたのに、あんなに鍛えてくれたのに、自分は強くなれなかった。自分は結局、弱いままだった。今でも心の奥では怯《おび》えている。家族を思い出して泣いている。一人で生きる寂しさを怖がっている。自分は、ただの弱虫だった。そのことを、崩月家の者たちに知られたくなかった。絶対に知られたくなかった。師匠や夕乃や散鶴や冥理《めいり》に、失望されたくない。自分たちの努力を真九郎が無駄にしたと、軽蔑《けいべつ》されたくない。八年間が無意味なものだったと知られたら、真九郎はみんなにどんな目で見られるだろう。想像するだけで、死にたくなる。だから逃げた。真九郎は、崩月家から逃げ出した。師匠から肉体の一部を譲《ゆず》り受けてさえ自分の本質が変わらないと悟ったとき、真九郎には、もうそうするしかなかったのだ。
 この五月雨荘に、真九郎は逃げてきた。
 畳の上で背中を丸めると、込み上げてくる震えが全身を侵した。それに耐えようと歯を食いしばり、真九郎はきつく目を閉じる。涙が出できた。震えが止まらない。早く、朝が来て欲しい。そうすれば、何とかなる。嫌なものを全部心の奥底に押し込めて暮らせる。寝よう。早く朝が来ることを祈って。一際《ひときわ》強い夜風が吹きつけ、窓ガラスが震えた。その微かな音にさえ真九郎は怯え、たまらず目を開ける。
 紫が、見ていた。
 真九郎のことを、じっと見ていた。
 静かな闇の満ちる部屋で、二人の視線は正面から交わった。
 紫の大きな瞳は、情けなく震える真九郎の姿をハッキリと映している。
 ……見られた。
 銀子にも夕乃にも師匠にも散鶴にも冥理にも環にも闇絵にも紅香にも誰にも見られたことは無かったのに。誰にも知られてなかったのに。こんなガキに、見られてしまった。こんなガキに、知られてしまった。
 ……殺してしまおう……。
 心の何処かで、そんな声がした。
 多分、心の奥の、深い深い深い、暗い暗い暗い場所から。
 真九郎は紫に手を伸ばす。簡単なことだ。こんな細い首、簡単にへし折れる。指先で眼球を貫き、そのまま脳を破壊してもいい。喉を潰して窒息《ちっそく》させてもいい。心臓など一撃で壊せる。
 こんな小さくて幼くて脆《もろ》い体など、簡単に壊せる。簡単に殺せる。死体はどうしよう。五月雨荘の裏にでも埋めておこうか。絶対見つからないくらい深く穴を掘り、そこに埋めてやる。紅香には、紫は誘拐《ゆうかい》されてしまったと言い訳しよう。自分の力が及びませんでしたどうもすいません。それでいい。そうしよう。それで終わり。
 真九郎の手が自分に向かってくるのを見ても、紫は逃げなかった。それが自分の喉に触れても、彼女は動かない。何も言わない。大きな瞳で、真九郎をじっと見つめていた。真九郎の両手が紫の喉にかかり、その細い首を絞《し》めようとしたとき、彼女は初めて口を開く。
「……どうして泣くのだ?」
 小さな声。真九郎にだけ聞こえるように、真九郎にだけ聞こえれぽいいように。
 そんな気持ちが込められた、小さな声。
「話してくれ、真九郎。わたしは、おまえのことが知りたい」
 話せだって?
 ふざけるなよ、ガキが。
 おまえなんかに話して、どうなるってんだ。
 無駄だ、無意味だ、くだらない。
 おまえなんか殺してやる。
 手に力を込めようとした真九郎は、紫の瞳に怯えの色がないことに気づき、己《おのれ》の矮小《わいしょう》さに気づき、愚《おろ》かさに気づき、ここから逃げたくなった。この子から逃げたくなった。
「大丈夫。わたしは、ちゃんと聞くそ。だから話してくれ、真九郎」
 確約するように、彼女は静かに頷いた。
 その幼い声が、まっすぐな瞳が、真九郎の心の底にまで染み入る。
 気がつくと、真九郎は全てを語っていた。
 家族が死んでどれだけ悲しかったのか。どれだけ絶望したのか。それが今でも続いていることも、全て語った。全て語ってしまった。
 紫は何も言わず、それをじっと聞いていた。
 相手は七歳の子供。
 どこまで伝わったのかわからない。
 どこまで理解したのかわからない。
 でも紫は、黙って全てを聞いた。全てを聞いてくれた。
 救いを請《こ》うように見つめてくる真九郎に、紫は微笑む。
 全てを知り、その全てを受け入れるような、そんな優しい微笑み。
「偉《えら》いそ。よく頑張ったな」
 紫は小さな手を伸ばし、真九郎の頬をそっと撫でた。
 労《いたわ》るような彼女の手つきに、真九郎の表情が泣き崩れそうになる。
「死んでしまった人間は、もうこの世のどこにもいない。どんなに泣いても、いないものはいないのだ。どんなに求めても、会えないのだ。でもな、真九郎。おまえは、わたしに会えた。わたしは、おまえに会えた。わたしは一人で、おまえも一人。でも一緒にいれぽ、ほら二人だぞ? もう寂しくないじゃないか」
 そんな単純なものではない。でもそれは、間違いでもない。
 何か言おうとした真九郎に、紫は静かに顔を寄せ、その唇《くちびる》に自分の唇を重ねた。
 ぎこちない動き。初めての感触。
 紫は顔を離し、呆然《ぼうぜん》とする真九郎に言う。
「昔、お母様は、わたしにたくさんキスをしてくれた。なぜかと尋ねたら、大切なものにはキスをするのだと教えてくれた。そして、お母様は言ったのだ」
 いつかあなたも大切なものを見つけたら、キスをしてあげなさい。
 それは、母が娘に贈った言葉。
 この世の真理。
「わたしは、見つけた」
 紫は、真九郎の頭を自分の胸へと引き寄せ、小さな手で抱きしめる。
 まるで、母親が赤子を抱きしめるように。
 真九郎は頬に温かさを感じ、彼女の心音を聞いた。穏やかな鼓動。
「大丈夫だ、真九郎。おまえは一人じゃない」
 真九郎は目を閉じながら、彼女の声と心音を聞いていた。体の力が抜ける。暗くて重くて苦しくて不愉快な何かが、そっと遠くへ消えていく。固く縛《しば》られていたものが解かれていく。今まで抑えていた重しが失せ、全ての感情が解放される。笑っていたのかもしれない。怒っていたのかもしれない。悲しんでいたのかもしれない。喜んでいたのかもしれない。感謝していたのかもしれない。
 真九郎は八年ぶりに、本気で、心の底から泣いた。

 

「うわ、何この新婚初夜明けみたいな空気!」
 翌朝、真九郎の部屋を訪れた環は、室内に漂う雰囲気をそう評した。
 満面の笑みを浮かべて箸《はし》と茶碗《ちゃわん》を持ち、鼻歌を唄《うた》いながら朝食を食べている紫。何やら気まずそうな顔で、でも何処かスッキリした様子の真九郎。
「初体験は大成功。でもハリキリ過ぎて、ちょっと複雑なダンナさんて感じ?」
「全然違います。それで、何か用ですか?」
「あたしにも愛を」
「帰れ」
 違う違うお米貸してお米、と言い直す環を追い出し、真九郎はドアを閉めた。
「真九郎、早く食べないと、ご飯が冷めてしまうそ」
「……ああ」
 真九郎は腰を下ろし、紫の手で山盛りにされた茶碗を手に取って食事を再開。どうでもいいテレビの芸能ニュースを観《み》ながら、内心で大きくため息を吐《つ》く。
 一生の不覚だった。
 昨日のあれは、まさにそう表現するしかない。
 今朝、布団の中で目を覚ましたとき、自分の頭が紫に抱きしめられているのに気づいて、真九郎は昨晚のことが夢ではないことを知った。真九郎の頭をよだれで濡らしながら、紫はとても幸せそうに寝ていた。真九郎は思わず大声を上げそうになり、それでもいくらかの理性が働いてそれを呑み込み、しかし猛烈に恥じた。
 こんな子供に、自分の本心をさらしてしまった。
 あんなどうしようもない愚痴《ぐち》を聞かせてしまった。
 なんてバカなことをしてしまったのか。
 押し寄せる後悔、そして、それと相反する感情。でもそれを認めるわけにはいかない。こんな子供に慰《なぐさ》められたのが嬉しくて、本当に嬉しくて、泣いてしまったことなど、断じて認めるわけにはいかない。自分はそこまで情けない男ではないはずだ。
 あれは何かの間違い、気の迷いで、幻《まぼろし》だったのだ。
 真九郎はそう心を整理し、その件については触れないことにした。
 紫だって、はたして覚えているかどうか。
 テレビでは、お笑い芸人が最近の若者の風潮についてコメントしていた。犯罪が増えていろのは過激なゲームやマンガの影響だとか、手軽にネットで情報を入手できるのが原因だとか。
まったく興味はないが、真九郎は現実から目を逸《そ》らす意味でテレビを観続ける。話題は男女交際に及び、お笑い芸人はその場のノリで自分の恋愛経験などを語り始めた。「ファーストキスは中学一年のときで、相手は部活の先輩……」などと告白したとき、紫が箸を止め、さりげない口調で言う。
「わたしは七歳のときだな」
 ぶっ、と口に入っていたものを噴《ふ》き出してしまう真九郎。咳《せ》き込みながらテーブルの上のコップに手を伸ばしたが、中身は空。
 紫は、笑顔で自分のコップを差し出した。
「ほら、真九郎、落ち着いて食べろ」
「あ、ああ……」
 コップを受け取りながら頷く真九郎を見て、満足げに微笑む紫。真九郎の吐いた飯粒をティッシュで丁寧《ていねい》に拭《ふ》き取る様子には、どこか余裕さえ感じられた。
 水を飲みながら、真九郎は思う。
 自分は昨日、とても重大な選択をしてしまったのではないか。
 しかも、そんな気は全然なしに。

 

 午前中の授業は、とてもよく頭に入った。
 眠気はまったく無く、気分も悪くない。昨日はよく眠れたということだろう。
 不本意ながら、紫とのことは真九郎にストレスとは正反対の影響を及ぼしているらしい。あんな子供に慰められて安心してしまう自分。なんて単純さ。
 ……やっぽり一生の不覚だ。
 紫の口から、真九郎の語ったことが他人に漏れることはないだろう。その点だけは安心。そう、彼女は意外と口が固い。特に、自分のことは何も話さない。昨日の夜、少しだけ母親のことに触れていたが、身内のことを語るのはあれが初めてだった。
 紅香は、どうして自分に依頼したのだろう?
 本当に、ただの直感なのか。
 紫との平凡な日常で忘れがちになっていたことを、真九郎は今さらながらに考えた。
 昼休みを告げるチャイムが鳴り、クラスメイトの大半が教室の外に散って行くのを見ながら、真九郎は弁当箱を開いて昼食を取る。生焼《なまや》けのニンジンを齧《かじ》っていると、横から呆《あき》れるような声をかけられた。
「何それ?」
 いつものように菓子パンとノートパソコン、今日はさらに分厚い封筒を持った銀子。
 メガネの奥の瞳を、汚らしいものを見るように細めていた。
「それ、食べ物なの?」
「俺の弁当」
 真九郎は、黒|焦《こ》げになったソーセージを口に入れる。苦い。でも飲み込んだ。これは今朝、紫が作った弁当である。真九郎は断ったが、紫がどうしても作ると言い張り、仕方なく任せたのだ。紫は大|鍋《なべ》を逆さにして床に置き、その上に乗って背の低さをカバーすると、冷蔵庫にあるものを適当にフライパンにぶちまけ、それを妙《いた》め始めた。真九郎は後ろで、紫の危なっかしい手つきにハラハラしながら、それを見守った。出来上がったのは、豆腐《とうふ》や納豆《なつとう》やキャベツや梅干《うめぼし》やトマトや漬物《つけもの》など、とにかくいろんな食材がグチャグチャに混ぜられたもの。
 ふー、と額の汗を拭《ぬぐ》い、「さあ、遠慮《えんりょ》せずに持って行くがいい」と紫に笑顔で差し出されてしまっては、受け取らないわけにもいかない。
「銀子も、一口どうだ?」
「いらない。体に悪いわよ、そんなの食べたら」
 事情を知らない銀子は、寝坊した真九郎が焦《あせ》って作ったものだと勘違いし、捨てることを勧《すす》めたが、真九郎は無視して食べ続けた。当然のごとく味付けなどされてないので、不味《まず》い。でも食べた。両手でフライパンを一生懸命に振っていた紫の頑張りを、無駄にしたくなかったのだ。これを食べないと紫が悲しむだろう。捨てても言わなけれぽわからないという発想は、何故《なぜ》か出てこなかった。
 崩れた豆腐とタクアンを口に入れる真九郎を見て、銀子は「物好きな奴」と小さく呟いてから、封筒を机に置いた。やたらと重そうな音。
「これは?」
「……あんた、自分の依頼忘れた?」
 封筒の中身は、真九郎が前に依頼した九鳳院《くほういん》家に関する情報だった。箸を置いて手に取り、コピー用紙の束をパラパラめくる。軽く五百ぺージ以上。しかも字が細かい。パソコンを持たない真九郎のために印刷してくれたのはありがたいが、これほどの量だとは思わなかった。真偽《しんぎ》の不確かなものも含めて集められるだけ、という注文を銀子は忠実に実行したわけだ。
 機密文書らしき写真のコピーや、英文も多数混じっていた。
「英文は翻訳してくれてもいいんじゃ……」
「それ別料金」
 アンパンを齧り、軽く口の端を曲げる銀子。嫌味でやってるのかもしれない。
 昔はよく意地悪されたよなあ、と思いながら紙をめくっていると、怪《あや》しげな情報がたくさん目に飛び込んでくる。九鳳院家の人間には神通力《じんつうりき》が備わっているらしいとか、奥ノ院《おくのいん》と呼ぼれる謎の施設があるらしいとか、ほとんどオカルトの分野だ。
 確かなものだけに厳選してもらった方が、良かったかな……。
 細かい文字の羅列《られつ》に目が痛くなってきたところで、真九郎はあるページで手を止める。
 九鳳院家の家族構成。
 九鳳院家の当主で、財閥《ざいばつ》の総帥《そうすい》でもある人物の名は九鳳院|蓮丈《れんじょう》。その横に夫人の名があり、下には子供の名が二つ。
「……ん? 銀子、ここ間違ってるぞ」
「どこ?」
「九鳳院家の子供の欄《らん》、男が二人になってるよ。娘が抜けてる」
「娘なんていないわよ」
「えっ?」
 真九郎の反応を怪訝《けげん》そうに見ながら、銀子は繰り返した。
「九鳳院家に、娘なんていないわよ」
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